ゆらり……ゆらりと、それは揺れていた。宙に浮かび、ゆっくりと揺れる。
 それは、足だった。人の足。視線を上げれば、天井から一本のロープが垂れ下がっていた。その先は、少女の首に繋がっている。
「……唯!」
 俺は、宙に揺れる身体へと駆け寄る。それは、俺の妹に間違いなかった。
 駆け寄る俺の目の前で、唯は天井から首を吊ったまま、突然顔を上げた。
「う、うわあ!?」
 腰を抜かす俺の目の前で、ニタリと、彼女は笑みを浮かべる。
「オ兄チャンモ、一緒ニ行コウ……」
 天井に、一点の染みが現れる。染みはみるみると広がり、ペットボトルの飲み口程の大きさになった。
 天井がたわんだ、そう思った。染みの部分が盛り上がったのだ。
 盛り上がった染みは、ゆっくりとこちらへ伸びて来る。ある程度の長さになって、俺はそれがロープである事を悟った。
「い、嫌だ……嫌だ! 死にたくない!」
 立ち上がろうとした足はもつれ、その場に転倒する。
 ロープはあっと言う間に伸び、俺の首にかかった。じわじわと俺の首を締め上げて行く。息が苦しい。意識が朦朧として来る。
「嫌だ……嫌……」

 ハッと俺は目を覚ました。鼓動は激しく、全身から汗が噴き出している。
 サッと部屋を見回すが、あるのは本棚と段ボール箱ばかり。ロープなんて、どこにも見当たらない。
「夢、か……」
 ホッと胸を撫で下ろす。心音はまだ、激しく鳴り続いていた。

 嫌な夢のせいで目を覚ました俺は、授業中もうつらうつらと舟を漕いでいた。
「大丈夫か? 随分と眠そうだな」
 心配して話しかけてくるのは、例によって加藤だ。
 大学生活初日に食堂で出会って以来、俺は学校での時間をほとんどこいつと共にしていた。
「んー……まあ、ちょっと嫌な夢を見てさ……」
 俺は言葉を濁らせる。大学生にもなって怖い夢を見て寝られなかったなんて言ったら、お笑い種だろう。
 でも、元はと言えば、こいつが妙な話を持ち出したせいだ。
「なあ、昨日言ってた噂って何だよ?」
 ちょっと口調がきつかったかもしれない。寝不足と八つ当たりにも似た加藤への苛立ちとで、思わずそんな言い方をしてしまっていた。
 そして何より、中途半端に聞いた「噂」ってのがどんな物なのか気になって仕方がなかった。
 口調のせいか、話題のせいか、加藤はぎょっとした様子だった。
「昨日、言ってたろ? 何かあったらすぐアパートを出ろだの、何だの」
「それは……その、でも、聞かない方がいいんじゃ……。だって、夢を見たのだって、その話を気にしていたせいかもしれないだろ? 俺が話したせいでこれ以上心配かけるのも嫌だし……」
「中途半端に聞かされた状態の方が、よっぽど気になるんだよ」
 加藤はやはり渋っていたが、昨日見た人影の事を話すとようやく口を割った。
「……高橋が住んでるのって、大塚山ハイム?」
 俺がうなずくと、加藤は「やっぱり……」と呟いた。
「あそこはさ、出るんだよ。出るって言うより、憑かれてるって感じかな……。この辺りに住んでる人の間じゃ有名だし、ほんとにヤバイから皆近付かないようにしてる。この前、事故あったろ?」
 俺はうなずいた。トラックの追突の事を言っているのだろう。
「そう言う話なのか? ただ、不幸な偶然が重なってるだけ? あれは、運転手の居眠り運転だろうって警察が……」
「そのすぐ手前で、角を曲がったばかりなのにか? あのアパートがある通りって、どちらの端も突き当たりになっていて角を曲がって来る形になるだろ。近所のおばさん連中は、運転手があそこにいる何かに憑かれたんだろうって話してるよ」
 俺は口を噤む。
 俺は、あのトラックが角を曲がって来るのを見た。特に危険な運転とも思わなかった。しかしトラックは、急ブレーキの音もなくアパートに突っ込んで来たのだ。
 それでも突然の眠気だとか、左折後の加速でアクセルを踏み過ぎたとか、色々可能性はあるだろう。
 しかし、それは加藤も承知しているらしかった。
「もちろん、それだけでどうのこうの言ってる訳じゃない。大の大人達が事故とそう言う話を結び付けるだけのものが、あのアパートにはあるんだ。
 俺達は、あのアパートを大塚山ハイムじゃなくて別の名前で呼んでる。
 ……“逢魔荘”って」


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2014.8.8

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