逢魔荘。
 あの世とこの世が混じり合う、混沌の地。
 誰がそう呼び始めたのか、いつから呼ばれているのか、定かではない。元々は戦国時代の合戦場だっただの、焼き払われた城跡だのと言う噂もあるが、はっきりした事は分かっていない。
 ただとにかく出るのだと、地元の住民達の間では疑うべくもない真実として知れ渡っていた。
 事実、そのアパートでは奇妙な事ばかり起こった。そして、人がいつかなかった。
 特に強烈だったのが五年程前に住んでいたお婆さんだ、と加藤は話す。
 引っ越して来た当初は、温厚そうな人の良いお婆さんだった。国道からアパートへ向かう道に入ってすぐの所に、公園がある。遊具の無い、ただの空き地のような公園だ。子供達には人気がなく、加藤達中学生の溜まり場になっていた。
「最初は、友達と道の分かれる場所がその辺りだから駄弁ってたとか、そんな感じだったと思う。よく行くようになったのは、そのばあちゃんがいたからかな」
 一人暮らしで寂しかったのだろう。アパートの造り上、住民は一人暮らしが多い。昼間は出払っている家ばかりだった。
 お婆さんは、いつもニコニコと加藤達の話を聞いていた。暑い日には、アイスを持って来てくれる事もあった。
 変貌したのは彼女が越して来てから一ヶ月、夏休みが終わる頃だった。
「嫁がね、私の事を殺そうとしているのよ」
 ある日突然、お婆さんはそう言った。
 よくある嫁姑の諍いだろうと、加藤達も始めはそう思った。親しい仲の加藤達なら味方してくれると踏んで、大げさに言っているのだろうと。
「殺すってそんな、まさかあ。何かの間違いじゃ……」
「そっかあ。でも、大丈夫だよ。何かあっても、俺達はばあちゃんの味方だからね」
 頭ごなしに否定したら、ややこしい事になりかねない。そう判断した加藤は、ただ大丈夫と繰り返した。
「本当なのよ。息子に黙って、こっそり様子を見に来ているの。いつも、見てるの」
「あれ? それ、もしかしたら、ばあちゃんを心配してるだけかもしれないよ? だって、お盆にも夫婦で様子を見に来てくれてたんでしょ?」
「心配? 心配してなのかしら……そうなのかしら……」
 お婆さんとお嫁さんは、決して仲が悪い訳ではなかったようだ。ただ、夏休みが終わって加藤達と会える時間が少なくなるのが寂しくて気を引こうとしたのではないかとさえ思った。加藤が説得してみると、自分の思い込みに揺らいでいる様子だったのだ――最初の内は。
 それは、九月に入って二週間程経った、連休の初日だった。部活の帰り道、加藤達はいつもの公園で駄弁っていた。
 その日は、お婆さんの息子夫婦も一緒だった。
「この前も来たばかりなのにねぇ。いくつになっても、お母さん、お母さんって。まったく、親離れ出来ないんだから」
 呆れたように言いながらも、その口調は柔らかく、表情も笑顔だった。息子さんも、お嫁さんも、穏やかな人だった。
「私、子供の頃に親を両方亡くしてるんです。だから、本当の母親みたいな感じで。加藤君達がいてくれて、良かった。お義母さんを、よろしくね」
 お嫁さんは、お婆さんに聞こえないように小声で言った。
 何だ、やっぱり仲がいいんじゃないか。やはりあれは、寂しくて気を引こうとしただけなんだろう。
 そう思ったのも、つかの間だった。
「あら、なあに? 三人でこそこそと話して」
 きょとんとした様子で、おばあさんは尋ねる。いつもと何ら変わりない、笑顔さえ浮かべた明るい尋ね方だった。だから、お嫁さんも笑って返した。照れ隠しもあったのだろう。
「何でもありませんよーっ」
「――私を殺す相談をしていたのでしょう」
 しんとその場が静まり返る。
 吹き抜けた風が、ざわざわと辺りの木々を揺らした。
 突然の言葉に、誰も何も言えなかった。お婆さんの言葉が、飲み込めなかった。
「いつもいつも、私を監視して。殺す機会を伺っているのでしょう。こそこそと陰に隠れて、家に忍び込んで……」
「お、お袋……? 何を言い出すんだよ、彼女はそんな事……」
 己の息子の言葉も、お婆さんの耳には入っていないようだった。まるで何かに憑かれたように、彼女はぶつぶつと続けた。
「皆、私を殺す気なんだわ。寝ていたら、近付いてくるの。ゆっくり、ゆっくりと。昨日は階段を上がって来た。きっともうすぐ、私は殺される。首を締められて、庭先に埋められるんだわ」
「お義母さん? 夜に、誰か来たんですか?」
 お嫁さんは、心配気に問う。
 お婆さんは目を丸く見開いた。しかしやはり彼女の方は向いていなかった。
「誰か来た? 誰か来たのかなんて言っているわよ、白々しい」
 まるで誰かに話しかけるように虚空に向かって話す姿は、明らかに異様だった。
 お婆さんの被害妄想は、日増しに大きくなっていった。会う人、会う人に「嫁に殺される」と触れ回り、近所――と言っても、距離で見ればかなり広くなるが――の者達をうんざりさせた。
 お嫁さんが気の利く明るい人物だと知っている人々は、お婆さんを相手にしなかった。あんまり悪く言うものだから、咎める人さえいたと言う。
 お嫁さんの人柄を置いておいても、お婆さんの話は支離滅裂だった。ある時、お婆さんは「嫁が自分の子供をけしかけて来た」と言った。
「子供がいるの。家に。廊下に。じっと、こっちを見ている。もう入って来たんだわ……。中にいるの……私を見て、ニヤリと笑うの……」
 息子夫婦に子供はいない。お婆さん曰く、これから生まれて来る子供なのだと言う。
 頻繁にお婆さんの様子を見に来ていた息子夫婦は、さっぱり寄り付かなくなった。加藤達も、秋の大会前で部活が忙しくなった事や日が短くなったのを理由に、お婆さんの来る公園へは行かなくなった。
「皆、関わり合いになりたくなかったんだろうな。家を訪ねる人なんていなかったんだ。同じ逢魔荘に住む人でさえも。……異変に気付いたのは、臭いが漂ってからだった。近くの部屋の人が、警察に通報したんだ」
「臭いって……まさか……」
「死んでたんだ」
 ずどんと腹の底に重石が落ちて来たかのような感覚だった。壇上で話す教授の声が、遠くに聞こえる。
「婆ちゃんに何があったのか、何を見ていたのか、誰も分からない。部屋の中はまるで争ったみたいに荒れていたらしいけど、婆ちゃん以外の人間の痕跡はなかった。警察は、幻覚でも見ていたのだろうって判断した。年も年だし、ボケも入ってたんだろうって。死因は心不全、事実上は原因不明の突然死だ」
 加藤の話を、俺は凍り付いたように聞いていた。
「殺される」と言って触れ回るお婆さん。部屋に誰かがいる。……似た話を、どこかで聞かなかったか?
「他にも、人がいないはずの部屋で女の姿を見ただとか、物音がしただとか、どこにでもありそうな細かい噂ならいくらでもある。
 そう言う場所なものだから、小学生が肝試しに入った事もあったよ。ところが、一人が行方不明になったんだ。ただアパートの部屋の前の通路を一巡して集合場所の公園に戻るだけの、迷いようもないルートだったのに。消防団や警察が方々を探したけれど、どこにも見当たらない。三日後になって、ようやく見つかったんだ。鍵がかかっていたはずの、逢魔荘の空き部屋の中で。変わり果てた姿だった」
「それこそ、何かの事件だったんじゃ……」
「当然、警察は事件として捜査したさ。見つかった空き部屋の中だって、一度探した場所だったしな。だけど、手がかりは何もなかった。子供の方も、外傷もなければ毒物も見つからない。結果、迷い込んだか友達を脅かそうと思って自ら忍び込んだ結果、運悪く心不全で亡くなったのだろうと言う事になった。それから――」
「あの」
 加藤の言葉を遮ったのは、前の席に座る女の子だった。黒い淵の眼鏡をかけ、黒い髪をお下げにしている。引き締まった表情は、まさに優等生と言った雰囲気だ。彼女は胡乱な視線を俺達に向けていた。
「これ以上話し続けるなら、外へ行ってくれませんか。あなた達の声で、先生の話が聞こえにくいので」
「あ、すいませ……」
 俺達は慌てて謝る。女の子は横目で俺達をひと睨みし、顔を前に戻した。
 加藤は声を落とし、俺だけに聞こえるように囁いた。
「まあ、色々噂や妙な事件はあるけれど、まずい部屋には一応魔除けやら厄払いやらしてから人を入れてるみたいだから、現時点で何もないなら気にするなよ。お札を剥がしたりだとか、盛り塩を捨てたりだとか、そう言う要らない事をしなければ大丈夫だろうからさ」
「盛り塩……なあ、黒い塩ってあるか?」
「黒い塩? もしかして、それが部屋にあったのか?」
「いや、そう言う訳じゃないんだけど」
「さあ……よく知らないけど、あるんじゃないか。盛り塩にするのは、通常、普通の白い奴だと思うけど。ホラーとかで、邪気を吸った塩が黒くなったって話なら見た事あるけど……」
 ぞっと全身の毛が逆立つかのようだった。
 引っ越し初日に捨てた、黒い砂。もしかしたら、あれは捨ててはいけないものだったのかもしれない。


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2014.8.9

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