健康診断の順番待ちの列で、俺は再び加藤と出会った。開始を待つ間、今朝金縛りに遭ったと言う話をすると、加藤は顔を真っ青にした。見た目に似合わず、こう言う話は苦手らしい。
 まさかそこまで怯えるとは思わなかったので、俺は軽く笑って言ってやった。
「そんな気にするような事じゃないって。金縛りってのは単に、脳が起きているのに身体が寝ているだけなんだ。だから、意識はあるのに身体を動かせない。睡眠障害みたいなもんだよ」
「あ、ああ……そうなんだ……」
 それでもやはり気になるようで、口を真一文字に結んで黙り込んでしまった。
「一人暮らしを始めたばかりで、ちょっと疲れが出たのかもな。そもそも俺、霊感なんてこれっぽちも持ち合わせてないし。金縛りと同時に幽霊が出たなんて話もよく聞くけど、脳が起きて身体は寝てる、要するに寝ぼけた状態なんだ。夢うつつで見たものを、金縛りを心霊現象と結び付けて怖がるせいで現実だと思い込んでたってのが落ちで――」
「なあ、もしかして高橋が今住んでる所って、鑓水か?」
 思いがけない質問に、俺は目をパチクリさせる。更にその質問は、的中していた。まあ、山の裏手だって事は話していたんだ。地元なんだから地名ぐらい分かっても不思議ではない。
「そうだけど……それがどうかしたか? 鑓水だと、何かあるのか?」
「いや……お前自身が気にしてないなら、聞かない方がいいと思う。ただの噂で無駄に怖がらせるような事はしたくないし。今、自分で言ったろ。先入観のせいで何でもないのに怖がる事になる場合があるって。
 ただ、もし何かあったらすぐそのアパートは出た方がいい。万一の場合、うちに来てくれたっていい。昨日QRコードで渡した連絡先に、住所も入ってるから」
「うちにって……お前ん家、実家だろ。親御さんとかいるんじゃ……」
「そのアパートだって言えば、納得してくれる」
 加藤は、あまりに切迫した様子だった。親まで納得するような噂? それって、ただの噂なんてレベルじゃないんじゃないか?
「何なんだよ、そこまで言われると気になるだろ。どんな噂があるんだよ?」
 加藤は難しい顔をして、首を振っただけだった。
「言わない。本当に、何もないなら気にする事はないんだ。実際、そこに長く住んでる人達だっているし。ただ、もし何かあったらってだけだから。お前もあんまり、気にするなよ」
 そう話す加藤は、真剣な顔つきだった。

「気にするなって言われてもなあ……」
 アパートへと国道沿いの坂道を登りながら、俺はひとりごちる。
 あんな風に中途半端に話されれば、かえって気になるというものだ。しかしあの後、どんなにせがんでも加藤は詳しく話そうとはしなかった。
 坂道の途中で国道をそれ、畑と墓地の間を進む。あとは、この先の角を曲がればアパートある通りだと言う所まで来て、俺は足を止めた。
 角に立つ止まれの道路標識の下に、小柄な人影があった。黒い髪を横の高い位置で結んだ女の子。
「……唯?」
 俺の呟きに、人影が振り返る。間違いなく、実家にいるはずの妹だった。
「お兄ちゃん! えへへー、来ちゃった」
 唯は小走りに駆け寄って来る。
「来ちゃったって……お前、学校は? 一人で来たのか?」
「学校なら、まだ休みだよ。もう高校生なんだから、これくらいの距離、一人で来れるよ。ちょーっと高くついちゃって、チャージが片道で無くなっちゃったけど」
 そう言って、期待するように横目で俺を見上げる。俺は深いため息を吐くと、財布から千円札を取り出した。
「ったく……俺だって一人暮らしで色々金かかるんだから、あんま頼りにするなよ」
「はいはいー、ありがとさんっと」
 唯は調子良く言って、折りたたんだ千円札をパスケースにしまった。
「でも、なんでこんな所で待ってたんだよ? 部屋の前にいればいいじゃんか」
「あ、そうそう……お兄ちゃんの部屋からさ、物音が聞こえたんだよね」
「……は?」
 明るい笑顔からコロッと一転して、唯は深刻そうに眉根をひそめる。
「私も最初、部屋の前で待とうと思ったんだよ。ずっと立ってるの疲れるし。アパートにいれば、もしかしたら近所の人と会って中でお茶でも~って座れるかもだし」
 最後の図々しい考えは、聞かなかった事にしておこう。唯は続けた。
「それで部屋の前で待ってたら、中から物音が聞こえて。何て言うんだろ……こう、ドタン、バタンって。大きいものが倒れるような音。何か家鳴りも凄いし、古いアパートだし、崩れたりしたら嫌だなって……一昨日の事故現場も直してる様子はないしさ」
「物音……?」
 唯は調子の良いちゃっかり者だが、嘘は下手だ。彼女が本当の事を言っているのは、すぐに分かった。
 加藤の話を聞いた後なせいか、嫌な考えが脳裏に浮かぶ。いやいや、まさか。唯が聞いたのは、ただの音だ。これがお経だとか呪詛の言葉だと言うならともかく、ただ他の部屋の生活音が聞こえたと言うだけの可能性も十分にあり得る。
 もちろん生身の人間と言う可能性もある訳だが、隣近所の生活音と言う可能性もある以上、むやみに通報する訳にもいかない。まずは音の正体を確かめようと言う事で、俺達兄妹は恐る恐る二階の一番奥の部屋へと向かった。
「何も聞こえないな……」
「で、でも、さっきは確かにしたんだよ。今は全然聞こえないけど、家鳴りも凄くて……」
 ハッと俺は振り返った。隣に立つ唯は、びくりと肩を揺らす。
「な、何なの、急に?」
「いや……今、誰かに見られてたような気が……」
「やめてよ、そう言うの!」
 唯の声は震えていた。別に怖がらせようとしたんじゃなく、本当に視線を感じたんだけどな。
 俺はそっとドアノブに手を伸ばす。回すが、鍵はちゃんとかかったままだった。
 鍵を開け、中へ入る。唯も、俺の服の裾を掴んで寄り添うようにして入って来た。いつもなら絶対に、こんなしおらしい行動は取らない。お化け屋敷に行ったって、逆に脅かしてやろうと意気揚々と入って行くような奴だ。もっとも、お化け役が隠れている場所に気付けずに驚かされまくって終わるのだが。それでも懲りないような奴が、こんなに怯えるなんて。
 風呂場、トイレ、そして部屋の奥、更にはクローゼットの中まで確認してみたが、別段変わったところはなかった。唯が話していたような物音も聞こえない。
「なんだ、何もないじゃないか」
「で、でも、さっきは確かに聞こえたんだよ!」
「別に、お前が嘘を吐いてるなんて言ってる訳じゃないよ。こう言うアパートって、壁を伝って他の部屋の生活音が別の場所からのように聞こえたりするもんなんだ。それで、この部屋からだと思ったんじゃないか?」
「そうかなあ……」
 唯は、腑に落ちない様子だった。
「お兄ちゃんは、この部屋で何か変わった事なかった?」
「え? いや、別に……あ、いや、あるか。俺の思い違いかもしれないけど」
 俺は、部屋に入って右手の壁に向けられた机を指さす。
「あの机、あんな位置に置いたっけ?」
「え? いや、ごめん、そんなの覚えてない……」
 まあ、そりゃそうか。いくら片付けを手伝ったとは言え段ボール箱の積まれていた他人の部屋の配置なんて、俺だって覚えていられないだろう。
 唯は眉をひそめた。
「でもそれ、やばくない? いない間に物の位置が変わったりとか、私が聞いた物音とか、もしかして空き巣にでも入られてんじゃないの?」
「こんな所、空き巣なんているかあ?」
「分からないよ、だってここ、国道からは近いんだし。片面は山に面していて見通しが悪い、そうでなくても人も民家も少なくて目撃されにくい。泥棒には格好の的じゃない」
「へーっ。お前、意外と考えた発言できるんだなあ」
「もうっ! 茶化さないでよ!」
 ぶんと軽く振られた拳を、俺はひょいと避ける。唯はますます機嫌を損ねて、ぷくーっと頬を膨らませていた。

 片付けや買い出しを手伝ってもらって、唯に教わりながら一緒に作った夕飯を食べて、唯は帰って行った。暗い山道を駅まで送って、俺はゆっくりと湯船につかる。唯がいなくなると、一気に静けさが押し寄せて来る。どことなく、薄気味悪ささえ感じられた。
 まさか、変な噂があるかもしれないと言うだけで、その噂の真偽どころか内容さえも知らないのにアパートを出る訳にはいかない。すでに、一ヶ月分の家賃は払っているのだ。
 風呂を出て部屋に戻ろうとした俺は、廊下に沿って設置された流しの前で足を止めた。廊下の突当りに部屋はあり、その扉は開きっぱなしにしている。その奥には、部屋の奥の壁が見えた。
 その壁に、人の大きさほどの影が映っていた。
 忘れ物でもした唯が、戻って来たのだろうか。唯が来たのは、俺の様子を見るためもあったが、母さんから合鍵の受け取りを頼まれたとの事だった。勝手に来られても嫌だから断る気でいたのだが、高校生の妹を遥々使いに出されれば追い返す訳にもいかない。さすがは唯の母親といったところか。俺もその要領の良さを受け継げれば良かったのだが、残念ながら父親の方に似てしまったらしい。
「唯? 戻って来たのか? 暗かったろ、忘れ物なら連絡くれれば駅まで持って行ったのに」
 呼びかけた声に、返答は無い。影は今も、正面の壁に映っている。等身大の大きさ。本棚も積み上げた段ボール箱も全て壁に寄せている。あんな位置に影が映る事なんてない。そもそも、本棚や段ボール箱にしては影が細すぎるし、手足もある。あれは確かに、人の影だ。
 そして俺は気が付いた。
 影は床より高い位置で途切れ、ゆらゆらと不自然に揺れている事に。そう、まるで首を吊っているかのように。
「――唯っ!?」
 俺は、部屋へと駆け込む。
 まさか。唯が。そんな、なぜ――
 部屋へと駆け込んだ俺は、茫然と立ち尽くす。そこには、片付けが終わり空になった段ボール箱の山と、本棚や机やテレビと言ったささやかな家具だけがあり、どこにも人の姿などなかった。
 影は確かに、映っていたのに。


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2014.8.7

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