入学式は既に済んでいるが、授業の開始はまだ先だ。引越しの翌日もあるのはガイダンスのみで、それも午前で終わった。
 帰った所で、食料どころか冷蔵庫さえまだ買っていない。学食で昼飯をとっていた俺は、一人の男子生徒に声をかけられた。
「ここ、空いてますか?」
 明るい色の髪をツンツンに立たせた、ちょっとチャラそうな風貌の男だった。
 お昼時の学食。それもガイダンスが終わった直後で、大勢の一年生が流れて来ている。出入口そばの座席を確保し直ぐにホールを出て来た俺は容易に食事にありつけたが、ほとんどの生徒は席を確保するのも困難な様子だった。
 俺はこくりとうなずく。彼は正面の席に盆を置き腰掛けながら、俺の盆の横にあるクリアファイルを指差した。
「もしかして、一年? それ、ガイダンスの資料だよね?」
「ん? ああ、うん」
 今日はガイダンスだけだから、財布と鍵ぐらいしか荷物がない。ポケットに突っ込むだけで家を出たがために配られた資料を入れる物がなく、俺は生身で持ち歩いていた。クリアファイルが付いてきたのがせめてもの救いだ。
 正面の席に座る彼は、ぱあっと顔を輝かせた。
「俺もなんだ。よろしくな!」
 茶髪の彼は、加藤と名乗った。元々この辺りに住んでいるいわゆる地元民らしい。
「本当はもっと都会の学校に行きたかったんだけどさ。この辺じゃ、遊ぶような所もないし。でも、受かったのがここだけだったんだよなあ。高橋は実家?」
「いや、一人暮らししてる。学校のすぐ近くだよ」
「へぇ。どこどこ?」
「学校の裏に、小さい山あるだろ。あれを回り込んだ辺り」
 身を乗り出していた加藤の表情が、ピシリと凍り付いた。
「裏山の反対側って……まさか、オウマソウじゃないよな?」
 やや早口で、加藤は問うた。その表情は、硬い。声もどこか、震えているように感じられた。
 聞きなれない言葉に、俺は首をかしげる。
「馬……何て?」
 スッと加藤は視線を落とす。
「いや、違うならいい。気にしないでくれ」
 やはり早口で言って、加藤はカレーを食べ始める。それ以上、住所の話をしようとはしなかった。

 加藤とは学校で別れ、俺は一人、アパートへと帰った。
 昨日の事故で大穴を空けられた壁は、ビニルシートで覆われている。部屋に住んでいたおばさんは、しばらく知人の家に世話になるらしい。大家には空いている部屋へ移る事も勧められたらしいが、本人はどうもこのアパートへ戻って来る気はなさそうな様子だった。子供と離れてこんな辺鄙な所に一人暮らしだと何かと不便だろうし、まあ色々あるのだろう。知り合ったばかりの間柄で詮索する訳にもいかず、詳しい事は聞いていない。
 配布資料の入ったクリアファイルを置こうとして、俺はふと違和感に気付いた。
 机が、ない。
 バス・トイレ付のワンルーム。玄関を入って真っ直ぐ奥に廊下が伸びていて、その両脇に風呂やトイレへの扉と、台所がある形だ。突き当りの部屋に入って正面、奥の壁につけるようにして、机を置いたはずだった。
 ぐるりと首を巡らせれば、反対側の壁につけるようにして目的の机は置かれていた。おかしいなあ。確か、こっちに置いた気がするんだが。越して来たばかりの部屋で慣れなくて、思い違いをしているだけだろうか。
 何はともあれ、片付けの再開だ。家族に手伝ってもらってあらかた片付いたとは言え、全てではない。本や漫画など急を要する訳ではない荷物はまだ段ボール箱のままだし、ネット環境だって整えなきゃならない。
 俺は手近な箱を引き寄せると、シャーペンの先でガムテープに切れ込みを入れた。

 突然大きな音が部屋の中に鳴り響き、びくりと俺は肩を揺らした。気づけば、窓の外はもう真っ暗だった。西側に山があるせいで、暗くなるのが早い。片付けの最中、手に取った本を思わず読みふけってしまっていた。
 音の正体は何の事はない、ただの呼び鈴の音だ。玄関の扉を開けると、白いワンピースにエプロン姿の美少女が立っていた。その手には、プラスチックのふたを乗せた皿。
「あ、あの……お夕飯って、まだですか? ちょっと作り過ぎちゃって、ご迷惑じゃなければ……」
 柳花さんは照れ臭そうに頬を染め、もじもじとうつむく。俺は大きくかぶりを振った。
「全然っ! 迷惑なんて、そんな事! 夕飯まだだったんだ。ありがとう、助かるよ」
「本当ですか? あの、ご一緒しても……?」
「どうぞどうぞ。上がって」
「お邪魔します」
 礼儀正しく言って、柳花さんは俺の部屋へと入った。俺は残り半分ほどになった段ボール箱を部屋の隅へと押しやる。
 中へと通してから、人を迎えられるような部屋ではない事に気が付いた。手料理を持った女の子の来訪にすっかり舞い上がってしまって、失念していた。
「ごめんね、散らかっていて。あと、机……勉強机と小さいちゃぶ台しかないんだけど」
「大丈夫です。私の部屋も、似たようなものですから」
 そう言って、柳花さんは柔らかく微笑む。天使だ。隣に住む女の子が手料理を持って来てくれるなんて、まるでラブコメ漫画か小説の主人公みたいじゃないか?
 柳花さんが持って来てくれたのは一口サイズの鶏肉を甘辛いたれで味付けしたものと、野菜炒めだった。彼女が自分の部屋と俺の部屋を往復している間に、俺はペットボトルのお茶を紙コップに注ぐ。手伝おうかと声をかけたが、「大丈夫です」と言われてしまえばそれ以上は何も言えない。
 こうして、一人暮らし一日目の夕食は思っていたよりも色々な意味で豪勢なものとなった。
「美味しい! 柳花さん、料理上手なんだね」
 一口食べて絶賛すれば、彼女の白い頬に赤みが差す。
「あ、ありがとうございます……。私、実を言うと少し寂しかったんです。ずっと一人で、一緒にご飯を食べる人もいなくて」
「柳花さんは、大学入学と同時に引っ越して来た訳じゃないの?」
 柳花さんは寂しげに微笑んだ。
「いいえ。ずっと前から、ここに……」
「えーと、その、ご家族は?」
 もしかしたら、地雷かもしれない。そうは思いつつも、他に会話の繋がる言葉が見つからず、何より彼女への好奇心を抑える事ができなかった。
 しかし彼女の返答は、予想とは少し違ったものだった。
「……分かりません」
「分からない、の?」
「もうずっと、会ってないんです」
 生き別れ、と言う奴だろうか。やっぱり、聞いてはいけない話だったのかもしれない。
「ごめん……何か、悪い事聞いちゃったね」
「いいえ、大丈夫です。私、ずっと、稔さんみたいな方が来てくださるのを待ってました……。あの、よろしければ、これからもこうやってたまに一緒にお夕飯を食べてもいいですか?」
「も、もちろん! 俺なんかでよければ!
 夕飯だけと言わずさ。学校、同じなんだろ? 明日、一緒に行かない? 何時に家出てる?」
「ありがとうございます。でも、明日って健康診断ですよね? 男女で時間違うのでは……」
「あ、そっか……」
 柳花さんはクスクスと笑っていた。今度の笑顔は寂しさなど感じさせず、嬉しそうなものだった。
 彼女との会話に夢中になっていた俺は、昼間出会った加藤の奇妙な反応も、家具の位置が変わっていた事も、すっかり忘れてしまっていた。
 そしてその晩、俺は金縛りに遭った。


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2014.8.6

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