昨日降った雨で桜の花びらはあらかた散ってしまったが、この辺りはまだ随分と残っているようだ。窓を開け、大きく息を吸い込めば、草木の香りが胸いっぱいに広がる。
 受験戦争を終え、無事大学に進学した俺は、今日からこの町で一人暮らしを始める。
 国道から道をそれ、車で五分とかからない場所にアパートは建てられていた。アパートの裏手には、小さな山がある。その様は、そびえると言うよりもこんもりと盛られていると言った方がイメージに近い。明日から通う事になる大学はこの山を挟んですぐ反対側にあるが、山には細い遊歩道と言う名の登山道しかなく、その上こちら側に降りる道がない。学校へ通うには、山をぐるりと回り込んで行く必要があった。それでも徒歩三十分程度なのだから、都外の実家から通うよりはずっと楽だ。
「稔! サボってないで片付けなさい! あんたの荷物なんだよ」
 怒鳴り声に、俺は首をすくめる。部屋の中では、実家から送ってくれた家族がダンボール箱の紐を解き、あれやこれやと片付けを進めていた。
「あれ? 父さんは?」
 室内を見回し、俺は呟く。確か、布団だとか本棚だとか大きな家具を運び込んでいたはずだ。
「ガソリン入れに行った。ほら、そっちのダンボールやって」
「大した量じゃないんだから、その辺に置いとけばいいんだよ。後で自分でやるからさ」
「そんな事言って、あんたの事だからどうせずっと放っておくでしょう。お客さんが来たらみっともないじゃないの」
 一人暮らしの大学生の家に、誰が来ると言うのか。
 そうは思いつつも、俺は近くのダンボール箱を開けにかかった。あんまり言い返して怒らせても、面倒なだけだ。
「うわ、こんなに本持って来たんだ。どこに置く気?」
 妹の声が上がり、そちらに目をやる。開かれたダンボール箱の中身を見て、俺は慌ててそれを取り上げた。
「これは俺がやっておくから。お前は、玄関の方行ってろ」
「あーっ、分かった。お兄ちゃん、この中にエロ本隠してるんでしょ?」
 唯は、読みかけの本を開いた状態で伏せて置いたりするような奴だ。こいつに触らせたら、どんな扱いをされるか分かったもんじゃない。そう思っての事だったんだが、妙な勘繰りをされてしまったらしい。
「馬鹿言え。お前、本の扱い雑だろ。曲げられたり日焼けするような所に置かれたりしたくないんだよ」
「そんな事言ってー。あっやしいー」
 ニヤニヤとからかうように言って、唯は靴の入った箱を持って玄関へと去って行った。
「稔、ご近所さんに挨拶して来なさい。ほら、これ持って」
 母さんに押し付けるように渡された紙袋を携え、俺は部屋を出た。意外と重い。中身は、蕎麦のようだ。
「こんなに近所いるかなあ……」
 アプローチに出て、俺は思わずぼやいた。
 アパートの両隣に家はない。向かい側も畑が広がり、ご近所と言えるのはこのアパートの住人くらいだ。
 その住人も、大していない。一階は四部屋中三つが埋まっているが、二階には俺の部屋を含めて二軒あるのみ。俺が来てやっと半分と言う状況だ。こんな事で収入は大丈夫なのかと、いらぬ心配をしてしまう。
 一階に入居している三軒の内、応答があったのは一軒だけだった。一番奥の家は留守。その手前は空き家。手前から二番目は中からぼそぼそと話し声が聞こえて窓からちらりと顔が覗いたが、どんなに待てども出て来る事はなかった。一番手前の家でようやく住人が出て来て、俺はホッと息を吐いた。
 うちの母親よりは少し若い、四十代後半ぐらいのふっくらした女性だった。俺は紙袋の中から箱を一つ出すと、両手で差し出した。
「二階に引っ越して来ました、高橋です。よろしくお願いします」
 挨拶ってこんなもので良いのか? 何せ初めての一人暮らしだ。引越しの挨拶なんてした事がない。
 幸い特に厳しい事を言われる事もなく、彼女は朗らかに笑った。良かった、この人とはやっていけそうだぞ。
「これはご丁寧にどうも。珍しいわねぇ、このアパートに若い人が越して来るなんて。ここ、駅から少し遠いでしょう。バス停も近くにはないし」
「あ、俺、K大なんですよ。裏山のすぐ反対側なんで……」
「ああ、なるほど。それじゃ、入学に合わせて?」
「はい」
「私にもあなたと年の近い息子がいてね。専門学校を卒業して、出て行っちゃったのだけど。ちょうど入れ替わりね。何かあったら、何でも頼ってちょうだいね」
「ありがとうございます」
 ぺこりと軽く頭を下げる。それから俺は、妙な反応だった手前から二番目の家についてこの人に聞いてみる事にした。
「あの、お隣ってどういう方だか分かりますか? 一番奥は普通に留守だったんですけど、隣はいるみたいなのに出て来なくて……」
「ああ……ちょっとね、変わった人みたいなのよね。私も隣なんだけど、滅多に顔を見る事がなくて。たまに見かけたら、殺されるとか何とかぶつぶつ言っていて。こんな場所だし、何かやらかして逃げている人なのかもねぇ。怯えているだけで絡んで来る訳じゃないから、悪い人ではなさそうだけど……あまり、関わらない方がいいわよ」
 俺は、隣の家の方を見やる。表に面した窓はカーテンがぴっちりと閉められ、玄関の扉も硬く閉ざされていた。
 一階の挨拶を終えた俺は、二階へと戻った。俺の部屋は、四階の一番奥だ。その手前に一軒だけ、哀川と表札のかかった部屋があった。
 呼び鈴を鳴らすと、「はーい」と高くしかし落ち着いた声が聞こえて来た。
 ガチャリと扉が押し開かれ、住人が顔を覗かせる。やった、女の子だ。しかも、なかなかに可愛い。
「隣に越して来た、高橋です。騒がしくてすみません。これ、つまらない物ですが……」
 一階でやったのと同じようにして、蕎麦の箱を差し出す。受け渡し様に、彼女のひんやりとした細い指が軽く触れた。
「ありがとうございます。哀川柳花です。柳に花で、りゅうか。昼間は大学に行くので、あまり家にはいないと思いますが……」
「えっ、大学生? 俺もなんだ。今年から、この裏にあるK大に……」
 俺の言葉に、彼女は目を丸くした。長い黒髪がさらりと揺れる。
「K大学なんですか? 私もです。今年、入学して……文学部なんですけど、高橋さんは?」
「俺もだよ! 凄い偶然だね」
「こんな事ってあるんですね」
 柳花さんは口元に手を当て、クスクスと笑っていた。
 一通りの挨拶を終えた俺は、部屋へと戻った。隣に住む、同じ大学、同じ学部、同じ学年の美少女。互いに家を出て一人暮らし。大学生活、楽しくなりそうだ。
 自分の部屋に戻ると、唯がパタパタと駆けて来た。玄関の片付けは終わって、また中を片付けていたようだ。本には触れてないだろな?
「おかえりー。ねえ、靴箱の中に変な砂? みたいなのあったんだけど」
「砂? そんな物、掃いて捨てとけよ」
 玄関先には、靴箱が備え付けられている。俺は、縦に細長い戸を引いた。
「一段目の奥」
 腰を屈め、一番上の棚を覗き込む。確かに唯の言う通り、黒い砂のような物が小さく盛られていた。ご丁寧に、砂の下に白い紙まで引いてある。
「何だこれ……」
 紙の上に乗っているおかげで、砂を取り除くのは容易だった。こぼさないよう慎重に、紙の中央に砂を寄せるようにして持ち、立ち上がる。
「外に捨てて来る。これ、中に置いといてくれるか? まだ二軒配ってないから、その分は持って帰らないでくれって母さんに伝えといて」
「ラジャー」
 紙に包んだ砂を持って、俺は再び外の階段を降りて行った。
 階段から門までは、二、三メートルほど間がある。門まで続く石畳を外れれば、アパートの建物と塀の間に庭とも呼べない程度の細長い隙間があった。こちら側に面した掃き出し窓はないから、ここの部分は共用スペースのはず。
 少量の砂らしき物体は、ばらまいても然程目立ちはしなかった。ここに捨てたと分かっていて目を凝らせば、これだなと分かる程度。これなら、雨でも降ればすぐに地面に溶け込んで一切分からなくなるだろう。
 静かな通りにエンジン音が聞こえてちらりと振り返ったが、角を曲がって来たのはうちの車ではなかった。まだ、父さんは帰って来ないようだ。
 さっさと戻らないと、また母さんや妹に怒やされかねない。
 カンカンと足音を響かせて階段を上って行く。踊り場を折り返したその時、ガアンと大爆音が辺りに響いた。
 錆び付いた階段が揺れ、思わず手すりにしがみつく。直ぐに音と揺れは止んだ。俺は、恐る恐る下方を覗き込む。
 トラックの車体が、階段の下をふさいでいた。
 門を突き破って敷地に進入したトラックは、古びた石畳をタイヤで砕き、真っ直ぐにアパートへと突進していた。コンテナと階段の間には人一人ならば通れそうな隙間がわずかに空いているのみ。運転席は、壁の向こうへと消えている。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!? どこ!?」
 悲鳴にも近い声が上からして、ハッと俺は我に返った。唯の声だ。
「俺はここだ! 大丈夫、階段にいたから!」
 叫ぶと、俺は階段を駆け下りて行った。トラックの運転席は、建物の中へと消えているのだ。つまりは、一階の一番手前の部屋へと。
 コンテナと階段の手すりの間をすり抜け、玄関へと駆け寄る。事故の衝撃で蝶番が外れ、突き破られた横で玄関の部分も穴と化していた。
 その部屋の住人は、部屋の奥で壁に背をつき座り込んでいた。
「大丈夫ですか! 怪我は!?」
「だ、大丈夫……驚いちゃって……」
 放心したような表情で、彼女はトラックを見つめていた。俺の背後でバタバタと足音がする。唯も、俺の後に続いて部屋に駆け込んで来たのだ。
 おばさんは無事だったが、運転手の方はそうもいかないようだ。頭から血を流し、痛みに呻いていた。
「唯、110番!」
「う、うん!」
 上ずったような声でうなずくと、唯はポケットから携帯電話を取り出す。
 俺は、部屋の中へと突っ込んで来たトラックを見つめる。
 車体は門を突き破り、石畳の上を通って階段の横へと突っ込んで来た。ついさっきまで俺が立っていた場所はコンテナの下だ。
 あと少し階段へ向かうのが遅かったら。
 急がず歩いて戻ろうとしていたら。
 俺の背中を、つーっと冷たいものが流れて行く。

 ……まさかこれが奇怪な物語のほんの序章に過ぎないだなんて、この時の俺は全く思いもよらなかった。


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2014.8.5

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