授業開始一週目は、どの科目も授業概要や評価方法の説明ばかりのようだ。概要説明後に実際の授業内容に入る科目もあったが、そう多くはない。当然、課題の出る授業も少なく、図書館の利用者は少なかった。
 奥の閲覧スペースで新聞を物色しながら、俺は引っ越してからこれまでの事を洗いざらい加藤に話した。加藤は顔を青くしつつも、最後まで俺の話を聞いてくれた。
「最初は気のせいかとも思ったけど、もうダメだ。ギブアップ。悪いけど、今夜はお前の家に泊めてくれないか?」
「分かった。親に連絡入れとくよ」
 加藤は、スマートフォンを取り出す。
 怪異は、アパートの中だけで起きているのだ。他所へ避難していれば、もうあんな目に遭う事はないだろう。下の階のおばさんが帰って来る気がなさそうだったのも、何かあったのかもしれない。
 ふと、俺の脳裏に隣の部屋の少女の顔が浮かんだ。柳花さんは大丈夫だろうか。彼女も、あのアパートに住んでいるのだ。俺の部屋に来ていた霊が、隣に危害を及ぼさないとは限らない。彼女も、どこかへ避難させるべきじゃないか?
 新聞に目を落とした俺は、ハッと目を見開いた。
「あった……これだ!」
「マジ!?」
 身を乗り出す加藤に、俺は新聞紙を差し出した。
「女子大生無差別惨殺事件……犯人死亡。うわっ、二十年も前の記事かよ。そりゃ、父さんや母さんも知らないはずだわ……俺が生まれてから、引っ越して来たからなあ」
 それは、二十年前に起こった事件の記事だった。大学生の女性が次々と誘拐および殺害された。容疑者は逃亡。潜伏先に警察が押し入った時には、首を吊り亡くなっていた。部屋からは被害者の遺品や、行方不明として捜索されていた被害者の遺体もあったと言う。
 当時事件との関連を見て捜索されていた行方不明者は多く、まだ遺体の一部が見つかっていない被害者もいるようだ。
「住所は市までしか書かれていないけどさ、これ、うちのアパートの事じゃないか?」
「かもな……。それじゃ、この加害者か被害者、あるいは両方の霊があのアパートに憑いていて、不幸な事件や事故を引き起こして、更に増えて……ってところか」
「あら、意外。まだ宿題も出てないでしょうに、あなた達も自主的に勉強なんてするんですね」
 失礼な言葉に顔を上げれば、眼鏡をかけた女の子が俺達の囲む机の傍らに立っていた。その手には、三、四冊の分厚い本を抱えている。
「授業妨害なんてするものだから、熱心さの欠片もないものだと思っていました」
 容赦のない皮肉が飛ぶ。ほぼ初対面の相手に、よくそこまで言えるな。友達できないぞ。
 なんて内心では毒づきながらも、俺も加藤も、彼女みたいに面と向かって毒を吐けるようなメンタルは持ち合わせていなかった。
「ごめん、ごめん。そんなにうるさかったかな。今後は、気を付けるよ」
 加藤が弁解する。俺は「あっ」と声を上げた。
「そうだ! 君の家に、泊めてもらえないか!?」
「はぁ?」
 彼女は露骨に嫌そうな顔をする。加藤さえも、ドン引きしていた。
「え……お前、何言ってんの……」
「え!? あ、いや、違う違う! 泊まるのは俺じゃなくて! 女の子の話だよ! えーっと、君……」
「相原」
「相原さんさ、昨日の俺達の話聞こえてたんだろ? 俺の今住んでるアパートさ、いわゆる“出る”アパートだったんだよ。遂に、身の危険まで感じるようになって……。俺はこの加藤の家に泊めてもらえる事になったんだけどさ、俺の隣の部屋にも住人がいるんだ。でも女の子だから、加藤の家に泊まる訳にはいかないだろうし……」
 相原は、渋るような顔をしていた。
「そんな、急に知らない人を泊めてなんて言われても……。ここら辺は何もないかもしれないけど、隣の駅まで行けば、漫喫ぐらいあるでしょ」
「そんな、女の子に勧められないよ。あの辺って、飲み屋だって多いじゃないか」
「だからって、いきなり知らない子を泊めてなんて他人に頼む? あなた、ちょっと常識なさ過ぎるんじゃない?」
「そう言わないでやってくれよ。高橋だって、相当参ってるんだ」
「そう言うなら、あなたがその子も泊めてあげればいいじゃない。友達なんでしょ?」
 助け舟を出してくれた加藤だが、矛先が向く事となってしまった。加藤は言葉を詰まらせる。
「え……うーん……聞いてみてもいいけど……高橋なら話もしてあるし男だからともかく、知らない女の子かあ……」
 困ったように、俺を振り返る。ごめん、二人とも。でも、柳花さんを一人にはしたくない。
「悪い子じゃないんだ。家族と生き別れていて、一人暮らしで……俺達と同じ学部の一年生だから、もしかしたら相原さんは知ってたりしないかな。同じ『あ』始まりだから、入学前の学力テストの時とか席近かったろうし」
 同級生と聞いて、渋っていた二人の表情が少し和らいだ気がした。相原さんは、溜息を吐いて近くの席に本を置き腰かけた。
「名前は? 私も家族がいるから、聞いてみなきゃ分からないけど」
「ありがとう……! 哀川柳花って言うんだけど」
 スマートフォンを出していた相原さんは、ぴたりと動きを止めた。
「“アイカワ”……?」
「うん。あ、もしかして知り合いだったりした?」
 期待を込めて聞いた言葉は、あっさりと打ち砕かれた。
「うちの学部にいないわよ、そんな名前の人」
「え……?」
 何と言った? いない? 柳花さんが? でも、彼女は同じ学校、同じ学部の一年生だって……学校のスケジュールも、把握していた。間違いないはずだ。
「な、なんでそんな事分かるんだよ? 知らないって言うならまだしも……」
 相原さんはスマートフォンをしまいこむ。代わりに学生証を取り出し、俺の方へと突き出した。
「私の名前は、相原理穂。出席番号一番なの。“アイカワ”なんて名前の人がうちの学部にいるなら、私は出席番号二番のはずよ」
 すっくと彼女は立ち上がる。
「馬鹿馬鹿しい。その人の存在が嘘なのか、その人が嘘を吐いていたのか知らないけれど、どちらにしたってそんな胡散臭い人、泊められる訳ないじゃない」
 冷たく吐き捨てると、彼女は本を抱え貸出カウンターの方へと去って行く。
 彼女は、この学校の人ではなかった。この学校には、存在しない女の子。思えば俺は、彼女と学校で会った事がなかった。帰り道や、この辺りに一件しかないスーパーでさえ会った事がない。同じ学部、同じ学年、隣同士なら、どこかで行動範囲が重なってもおかしくないのに。
 あのアパートで起こっている怪異の発端は、女子大生の惨殺事件。
 ――もう、中に入ってますよ。
 つーっと背中を、冷たい汗が流れる。
彼女は、まさか……。

 それ以上俺も、加藤も、柳花さんの話はしなかった。加藤も、俺と同じ考えに行き当たったのかもしれない。けれども、それを口に出して確認する気にはなれなかった。
 俺のスマートフォンに着信が入ったのは、加藤の家へと向かう道の途中の事だった。それは、母さんからのメールだった。
『唯が帰って来ません。連絡もつきません。もしかしてそっちに行ってない?』
 ハッと俺は息をのむ。今のあいつは、合鍵を持ってる。部屋に入る可能性がある。
「悪い、加藤! 俺、ちょっと家に寄ってかないと!」
「え!? でも、家って……おい、高橋!」
 加藤の呼び止める声も聞かず、俺は駆け出していた。
 まずい。あの部屋は危険だ。唯が、あの部屋に入ってしまったら……。まさか、呼ばれたなんて事はないだろうな?
『ぜひ詳しくお聞きしたいです。稔さんの、妹さんのお話』
「――クソッ」
 俺は短く吐き捨てると、国道沿いの坂道を駆け上って行った。

「あっれー。そんなに急いでどうしたの、お兄ちゃん」
 案の定、アパートの部屋の前に唯はいた。まだ、中には入っていなかったようだ。
「おま、え……っ、なんで、こんな所にいるんだよ……母さん、心配してたぞ……」
 息も絶え絶えになりながら、俺は唯へと歩み寄る。
 唯はヘラヘラと笑っていた。まったく、人の気も知らないで……。
「えへへー、この前来た時、忘れ物しちゃってさ。家の鍵なんだけど……」
「俺の家の鍵持って帰って、自分の家の鍵置いてったのかよ……」
 唯の学校も、もう新学期が始まっているはずだ。両親共働きだから、鍵がなければ困るだろう。取って来ざるを得ない。
 俺は渋々鍵を開ける。しかし、二人でこの部屋に入ってしまうのは不安があった。
「俺が探して来るから、お前はここで扉を押さえていてくれないか?」
「え? なんで?」
「いいから」
「あーっ。分かった、エロ本出しっぱなしなんでしょーっ」
「違う。そう言う事、外で大声で言うなよ」
「じゃあ、AV?」
「ああもう、馬鹿な冗談はいいから押さえてろって」
 唯に扉を押さえさえ、俺は部屋へと入って行った。
 まだ昼真っ只中の明るい時間だ。扉も開け放したまま。大丈夫。大丈夫。自分自身に言い聞かせながら、奥へと進む。
 廊下の突当りの部屋に辿り着いたその時、再び着信音が鳴った。母さんからだ。そう言や、連絡入れてなかったな。唯ならここにいるって、伝えないと。
 そう思いながら通知画面を見た俺は、凍り付いた。
『唯、帰って来ました。充電が切れてたって』
「は……!?」
 唯が帰って来た? 実家に?
 ……それじゃ、ここにいるのは誰なんだよ!?
 バタンと扉の閉まる音が聞こえた。俺は慌てて、玄関に飛びつく。ドアノブをガチャガチャと回す。押しても引いても、扉は開かない。
「おい!! 唯!? 唯なんだよな!? 開けてくれよ!! なあ!!」
 しん……と静まり返る。人の気配さえ、感じられない。
「嘘……だろ……」
 足元から震えが上がって来る。一、二歩後ずさると、ドスンとその場に尻餅をついた。
 もう、認めざるを得なかった。
 あれは、唯じゃない。俺は、はめられたんだ。
 コツン、と背後で音がした。反射的に、俺は振り返る。……部屋、か?
 恐る恐る、奥の部屋へと踏み入る。奥にある窓の外に、ちらりと人影が見えた。
 ばくばくと心臓が音を立てる。ここは二階だ。あんな所に、人がいるはずがない。そうだ、見間違いに決まっている。
 ゆっくり、ゆっくりと、窓に歩み寄って行く。もし、人がいたら? いや、これで再確認できるような存在なら、それは生きた人間なんじゃないか? それに、あの窓が開けば、そこから脱出できるかもしれない。
 恐怖と一縷の望みを抱え、そっと窓に触れる。鍵は、開く。窓枠に手をかける。そして俺は、一気に窓を開いた。
 誰もいない。
 簡素なベランダがあるだけだった。室外機と選択竿を渡すための支柱があるだけ。
 やっぱり、見間違いだったんだ。ホッと息を吐き、振り返る。
 隣人の女が、そこに立っていた。
 美少女などとは程遠い、皮膚は灰色に腐り、眼孔にはぽっかりと穴が空いた骸骨のような姿。その口元が、ニィっと三日月形に歪んだ。

「……ノル……稔……稔、起きなさい。着いたよ」
 母さんの声で、俺は目を覚ました。高速道路の高い壁だった辺りの景色はいつの間にか変わり、緑が窓の外に広がっていた。車のすぐ横にあるのは、古びたアパート。受験戦争を終え、無事大学に進学した俺は、今日からこの町で一人暮らしを始める。
 二階の奥が、新しい住居となる部屋だった。車に積んだ荷物を抱えて、部屋へと上がる。
「あれ? お兄ちゃん、靴箱の中に変な砂みたいなのがあるよ。捨てて来るね」
 唯が靴箱から取り出したのは、ご丁寧にも白い紙の上に盛られた黒い砂のようなものだった。
「ああ」
 何の気なしに、俺はうなずく。抱えていた荷物を適当に部屋の中に置くと、次の荷物を取りに下へと戻る。唯は、建物と塀の間の隙間に黒い砂を捨てていた。
 さらさらと、白い紙から黒い砂が地面へとこぼれていく。
 ――俺の、最悪の五日間が始まろうとしていた。


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2014.8.11

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