開いた目に映ったのは、梁が露になった木製の天井。ルエラは簡素なベッドの上に寝かされていた。布団に手をつき、上体を起こす。
 見知らぬ部屋だった。壁や床は白いペンキやニスが塗られているが、天井はそのままになっている。小さな窓は開かれて、風に煽られパタパタと開閉していた。
「お兄ちゃん、起きた!」
 甲高い声に振り返ると、小さな女の子が部屋の戸口から覗いていた。誰かに伝えるかのように起きた、起きたと叫びながら、廊下を駆けて行ってしまう。
 女の子の声が遠くなり、入れ替わりに少年の顔が現れた。年の頃は、ルエラよりやや下だろうか。少年は戸惑いながら愛想笑いを浮かべ、部屋の中へと入ってきた。
「……初めまして。具合はどう?」
「問題無い。ここは……? 助けてくれたのか?」
 少年はこくりと頷く。
「でも、見つけたのはエレーナだよ。さっき、走って行った奴」
 少年は壁際にあった椅子を引き寄せ、ルエラの傍らに座る。
「エレーナが君を見つけて、僕が家まで運んで来た。ここは北部コーズン村。
僕はシモン・ダン。よろしく」
 そう言って、シモンは微笑む。先程の戸惑いを含んだ笑みよりも、ずっと自然になっていた。
 扉が開き、良い香りが流れ込んで来た。真っ先に入ってきたのは、先程の女の子。続いて、盆に食事を乗せた母親らしき女性が入って来る。
「お早う。痛む所は無い? ずっと寝ていたんだもの、お昼はまだでしょぅ。ちょっと冷めて来ちゃったけれど、良かったら食べてね」
「どうも……」
 女性はシモンを立たせて、彼が座っていた椅子に盆を置いた。
「昨日の晩、崖の下で倒れていたのよ。
お名前、聞いてもいいかしら? 私はライサ・ダン。この子達は、シモンと、エレーナ。この子達が、貴女をここまで運んできたのよ。後、今は仕事に行っているけど夫のヤコブがこの家にはいるわ」
「リン・ブロー。
……私が倒れていた傍に、他に人は見なかったか?」
 ルエラは、後半をシモンとエレーナに向かって言った。
 シモンは首を捻る。
「誰もいなかったと思うよ。君一人だった。なぁ?」
「うん。お友達が一緒だったの?」
「いや……いなかったなら、いいんだ」
 ルエラは言葉を濁し、運ばれて来た盆からスープの入った皿とスプーンを取る。再度ライサに礼を述べ、ルエラはそのスープに口をつけた。ライサは冷めてしまったと言ったが、温め直せる物は、温め直してくれたようだ。このスープからも、湯気が立っている。中に入った野菜は、ほど良く柔らかくなっていた。
 何かあれば呼ぶように言って、ライサは部屋を出て行った。
 暫しルエラは食事を進めていたが、何とも言えない居心地の悪さに顔を上げる。シモンとエレーナは部屋に残り、じっとルエラを見つめていた。聞きたい事はたくさんあるが、言葉が出ない。そう言った様子だ。
 ルエラは手を休め、兄妹に笑いかけた。
「……助けてくれて、ありがとう。土砂の下から引っ張り出すのは、大変だったろう」
「土砂の下になんていなかったよ」
 シモンはきょとんとして言った。
「土砂があって、その上に倒れてた。あんなのの下にいたら、もう生きてないだろうし、僕一人じゃ連れて来られないよ。それにまず、エレーナも見つけられなかったろうし」
 ルエラは目を瞬く。
 崩れた足元。頭上から降ってきた土砂。そして、ルエラは落ちて行った。どう考えても、ルエラは土砂の下敷きになる筈だ。土砂の上に着陸するなど、あり得ない。
 何者かがルエラを助けたのだろうか。でも、何故? そしてその者は、一体何処へ消えた?
 黙りこんだルエラを、シモンは心配そうに覗き込む。
「どうしたの? 何処か痛い?」
「いや、大丈夫だ。ところでまた似た質問になるが、昨日から今日にかけて、この村に訪問者はいなかったろうか」
 シモンは首を傾げる。
「いないと思うなぁ……。こんな小さな村だもん、外の人が来たら直ぐに知れ渡ってるよ。君を運んで来た時だって、村中が注目してたんだから。
でも正確に知りたかったら、村長さんの所に行くのがいいんじゃないかな。あの人なら、村の全部を把握してる筈だから。案内しよっか?」
「頼む」
「エレーナもーっ。エレーナも、お兄ちゃん案内する!」
「ああ、そうだな。一緒に行こう」
 兄の服の裾を引っ張って主張するエレーナの頭を、シモンは優しく撫でた。
 微笑ましい光景に、ルエラの頬が緩む。残りの食事を一気に平らげ、ベッドを降りた。
「エレーナ、リンのコート持ってきて」
「うんっ」
 エレーナは元気良く頷くと、とてとてと走って行った。
 シモンはそれを見送り、ルエラを振り返る。
「土砂の上に倒れてどろどろになっちゃってたし寝苦しそうだから、上着だけは脱がさせてもらったんだ。勝手にごめんね」
「いや、構わない。ありがとう。台所は、どちらだろうか」
 食べ終えた食器を持ち、ルエラは尋ねる。
 シモンは背を向けた。
「こっちだよ、ついて来て」
 ルエラはシモンの後に続き、部屋を出る。部屋を出るなり、シモンは左を向いて叫んだ。短い廊下だ。エレーナは、何処か部屋の中にいるらしい。
「エレーナ~。僕達とリン、台所行ってるよー」
「待ってぇ~」
 先に行くとでも聞き違えたのだろうか。エレーナは呼び止めるが、シモンは構わず背を向けた。
 部屋を出て右に進み、突き当たった所は扉が無く、扉のような大きさに壁がくりぬかれていた。中は先程までルエラが眠っていたよりはやや広く、だがやはり小さな部屋だった。中央に置かれた食卓。四つの椅子がそれを取り囲んでいる。椅子を引けば、何とか人一人通れる程度しか幅が残らないだろう。
 奥にもう一つ扉があり、開かれたままになっていた。そこから、ライサが慌てて出てきた。
「あらあら。そのまま置いといて良かったのよ。リンは、お客様なんだから」
「いえ……そう甘える訳にも行かないので」
 ルエラはそう言って、ライサに盆を渡す。
「ありがとうございます。美味しかった」
「いえいえ。具合はどう?」
「おかげ様で」
 ルエラは微笑い、健康だと示す。
 そこへ、エレーナが食卓に入ってきた。腕には、ルエラの青いコートが抱えられている。エレーナの小さな体には、それはとても大きく持ちにくそうだった。エレーナは、誇らしげにルエラに差し出した。
「お兄ちゃん、はいっ」
「ありがとう」
 エレーナから受け取ったコートに、ルエラは腕を通す。
 そして、シモンとエレーナを振り返った。
「さあ、行こうか」

 村は四方を山に囲まれていた。正確に言えば、この村も山の中腹にある。ルエラは、この村の西にある山を回り込んでやって来た。東の山にはトンネルが通っており、旧サントリナ国へと続いている。
 サントリナ国は、今から二十九年前に滅亡してしまった国だ。国民の間で王族への反感が高まり、謀反が起こった。それは国内全土へと渡り、暴動がリムへと溢れ出る事を恐れたリム国は、サントリナ国に軍を送り込んだ。城へと遣いをやり、民を治めるよう指示した。しかし既にサントリナ国は取り返しのつかない所まで傾いており、とうとう王族は反乱軍に首を取られた。リム国軍の仕事は、頭首を失ったサントリナ国の統治となってしまった。そのまま国を丸ごとリム国内に取り込み、今に至る。
 ルエラは、大きく息を吸い込む。清らかな空気が、肺の深くまで取り込まれていく。
 緑に包まれた、長閑な風景だった。「魔女の里」と言う噂も、嘘ではないかと思ってしまう。ただ、サントリナ国と繋がるトンネルがある。それだけではないだろうか。サントリナ国の云われだって、確固たる証拠は何も無いのだ。
 ライサも、エレーナも、魔力など到底持たないように見えた。それとも、ルエラという余所者が来たから、力の使用を控えているのだろうか。
 ルエラは、前を行く小さな少女に視線を向ける。
 こんな小さな子供が魔女だなんて、考えられなかった。実際のところ、魔女に年齢など関係無い。その殆どは先天的に力を持っており、ルエラもそうだった。
 けれど魔女と言うと、己も魔女であるルエラでさえ禍々しいイメージを抱いていた。ルエラの母ヴィルマや、西部ペブル町で出会った軍人パトリシア。彼女達は、魔女だった。ヴィルマは、多くの罪無き人々を虐殺した。パトリシアは嫉妬に身を費やし罪無き者を陥れ、火刑に処そうとした。それが、魔女なのだ。
 ふと、隣を歩くシモンがルエラを振り返った。
「そう言えば、リンはどうしてコーズンに? こんな辺鄙な所、お客さんなんて滅多に来ないのに」
「……観光だ。この村には、旧サントリナへと続くトンネルがあるだろう」
「うん。でも、暗いし年に数回しか使われていないし、あんまりお勧めの観光スポットとは言えないよ。寧ろ、僕らは気味が悪くて近寄らないようにしてる。坑道とはまた違った雰囲気だしさ」
「シモンは坑道に行った事があるのか」
「父さんが、銀鉱で働いているんだ。危ないからって、なかなか連れて行ってくれないけどね。特に最近は、陥没が多いから……」
「おばあちゃんだ!」
 突然、エレーナが叫んで駆けて行った。
 彼女が駆けて行った先には、深く腰の曲がった老婦人がいて穏やかな表情で笑っていた。
「おやおや、エレーナじゃないかい。今日も元気だねぇ。一週間前はあんなに高い熱を出してたのが、嘘みたいだ」
「えへへ。あのね、お客さんが来たんだよ。おばあちゃん、聞いた?」
 エレーナは振り返り、ルエラ達に手招きする。
 ルエラとシモンは歩み寄り、ルエラはぺこりとお辞儀した。
「初めまして」
「リンお兄ちゃんだよ。エレーナがね、見つけたの」
「昨日の夕方、崖の下で倒れてたんだ。エレーナが見つけて、僕が運んできた。
リン、こちらはマーシャ・セシナさん。凄い物知りなんだ。先週もエレーナが発熱で寝込んじゃった時、見た事無い薬草と薬を使って直ぐに治してくれたんだよ」
 シモンはエレーナの後に付け足して紹介する。それから、マーシャに向き直った。
「ねえ、おばあちゃんはリンの他にこの村に人が来たか知ってる? 僕ら、それで村長さんの所に行こうと思ってるんだけど」
「お客さんかい? 見ては、いないねぇ……」
 ルエラは、その言い方に妙な違和感を覚えた。
 マーシャは続ける。
「確かに私は色々知っているけど、村の出入りに関してはアクロワの方がよく知っていると思うよ。私も、先刻まで彼の所に行っていたところさ。
それより、シモン。お前、今崖の下にいたのを見つけたと言ったね」
 マーシャの表情が険しくなる。
 シモンは「しまった」というように口を抑えた。
「言った筈だよ。村の外は危険だ。昨日も、土砂があったのだろう。好奇心旺盛なのは結構な事だが、危険に首を突っ込むのだけはやめなさい。お前達を心配して言っているんだよ」
「はーい……」
 シモンは口を尖らせる。
 思わず、ルエラは笑みをこぼした。シモンはそれに気づく。
「何が可笑しいんだよ」
「いや、すまない。似ている、と思ってな」
「誰に?」
「私と知り合いだ。つい先日も、『危ない真似はするな』と叱られたばかりだ」
「大人って、いっつも口煩いよね」
「だがそれは、私達子供の身を案じればこその言葉だ。私には、彼の存在はありがたいよ。私の親は忙しくて、周りの大人も到底口出しなど出来ぬ様子だったからな」
「リンは、大人だねぇ。見たところ、シモンと同じ年頃だろうに」
 マーシャはそう言って微笑む。
 ルエラは苦笑する。ルエラから見れば、シモンは自分より年下だろうと思えた。今、ルエラは軍服を着ていない。加えて、身長も女性の平均程度。男子として見れば、幼く思われても致し方なかった。
「マーシャさんは、医者か何かですか?」
「いいや。とうの昔に隠居した、しがない婆さんだよ」
 マーシャは、にこにこと穏やかな笑みをルエラに向ける。
 ルエラは愛想笑いを浮かべていたが、その目は油断無くマーシャを見つめていた。
「へぇ……。それにしては、随分と物知りでいらっしゃるようですね。まるで……賢者のような……」
 賢者。魔法使いが、時にそう呼ばれる事がある。魔法の使用には、人並み外れた深い知識と知恵が必要となる。先見の明、治癒能力、読心術――知識や知恵とは別に、そう言った能力を持つ者も中にはいる。そのような魔法使いは、賢者と呼ばれ敬われる。
 だが、マーシャは老婆。女性だ。若しもそう言った能力を持つのならば、それは彼女が魔女であると言う事になる。
 マーシャは、穏やかな笑顔を浮かべた。
「ありがとうねぇ。けれど私が賢者と同じ力なんて持っていたら、魔女って事になってしまうよ」
「え、ああ。ああ、そうですね。失礼しました」
 ルエラは慌てたように取り繕い、謝った。
 エレーナが、ぷうっと頬を膨らませる。
「おばあちゃんは、魔女なんかじゃないよ!」
「うん、分かっている。ごめんな」
 苦笑し、ルエラはエレーナの頭を撫でる。
「おばあちゃんのお父さんが、魔法使いだったんだって。だから、おばあちゃんも色々教えてもらったらしいよ」
 シモンはそう言い、空を仰ぐ。
「天気が崩れそうだ。急いだ方が良いかもね」
「そうだねぇ」
 マーシャも空を仰ぎ、頷く。空には、どんよりとした灰色の雲が覆いかぶさっていた。
「それでは、私達はこれで……」
「じゃあね、おばあちゃん」
「じゃあねぇ。リンも、何か私で分かるような事があったら聞きにおいで。大体は、家にいるから」
「はい。ありがとうございます」
 ルエラは軽く頭を下げ、彼女に背を向ける。
 エレーナはリンの手を取り、引っ張る。
「行こっ、お兄ちゃん!」
「おいおい、そんなに引っ張ったらリンが痛いだろ」
 ぐいぐいとルエラの手を引くエレーナを、シモンが諌める。
「今夜は、嵐になりそうだねぇ……」
 去り際、マーシャがそう呟いたのをルエラは聞いた。

 マーシャと別れ、ルエラ達三人は村長の家へと先を急ぐ。
「リンは、どれくらいこの村にいる予定?」
「特に決めてはいない。トンネルを見て気になる事があれば長くいるし、無ければ直ぐに出て行く」
「多分、今日はトンネル見れないんじゃないかなぁ。雨が降ると、この辺り外に出られるような状態じゃなくなるから」
「そうか……」
「それから、天候が怪しいと山越えはしない方がいいよ。行く所無かったら、うちに泊まって行って良いからさ」
「ありがとう」
「リンお兄ちゃん、今夜も泊まるのー? そしたらね、エレーナ、お兄ちゃんが住んでる所のお話聞きたい!」
 ルエラを見上げるエレーナの目は、輝いている。純粋な、子供の目だ。
「そう言えば、リンは何処に住んでるんだ?」
「住居は一応、中部だな。ビューダネスだ」
 ルエラの言葉に、シモンは目を丸くする。
「ビューダネス……? 首都の?」
「ああ」
 ルエラは平然と答える。
 突然、シモンはルエラの両肩を掴んだ。その目は、生き生きと輝いている。
「凄いや! そんな都会の人が、この村に来るなんて! 首都は綺麗な街だって聞くけど、本当? 建物はみーんな真っ白で、豪華な彫り物がされてるって」
「全ての建築物が白いと言う訳ではないがな」
「しゅと?」
 エレーナはきょとんとした様子で問う。
 シモンが、弾んだ声で答えた。
「お城がある、大きな街だよ! 王様やお姫様が、住んでいる所。今は、王子様もいるんだっけ?」
「ああ。王様が再婚なさった方の、連れ子だ」
「首都に住んでると、お姫様とかと会う事もあるの? すっごい綺麗な方だって聞いた事あるけど」
「……否、一般人が会う事は滅多に無いな」
 表向きは平静を装いつつも、内心は照れがあった。社交辞令として言われる事は、多々ある。だが、純朴な目を輝かせて語られるのは慣れていない。
「それに、姫様は殆ど城にいない。実際の所、王子の方が皇太子として向いているだろうとさえ、噂されているよ」
「そうなの? でも、王子は連れ子なんでしょ? 王家の血が流れてないのに、良いの?」
「血縁など、関係無いだろう。有能な者が国王になるべきだ。城の誰もがそう思っているし、私も同意だ……」
 前を行くエレーナが立ち止まった。続いて、ルエラとシモンも立ち止まる。
 村長の家に、着いたのだ。
 過疎の村と雖も、流石に村長の家はそれなりに整っていた。少なくとも、玄関に呼び出しの為のベルがある。
 シモンはそれを鳴らし、大声で呼ばう。
「村長さーん。ダン兄妹でーす」
 ややあって、玄関の扉が開いた。村長は頭髪の薄い、年老いた男性だった。彼はルエラに目を留める。
「おや、お客さんかい?」
「うん。昨日、僕達が運んできた人。リン・ブローって言うんだ。村長さんに、聞きたい事があるんだって」
 ルエラはぺこりとお辞儀する。
 村長は破願した。
「そうかい。どうぞ、入りなさい。立ち話もなんだからねぇ」
 村長の後に続いて、ルエラ達は家の中へと上がる。外装は街中のようで、広さもそこそこあるが、やはり中は質素な物だった。カーテンが閉められ薄暗い室内。燭台には薄っすらと埃が積もっている。入って直ぐ、正面の部屋にルエラ達は通された。
 部屋には、やや広めのテーブルが一つと、椅子が六つ並んでいた。どうやら、客間のようだ。壁沿いには本棚があり、その横には大きな地図が飾られている。別の面には広い窓があり、反対側の壁には柱時計があった。
 ルエラ達は勧められるままに、着席する。シモンも同じようにして座ったが、エレーナは席に着かず、窓際へと駆けていった。そして、横開きの窓をがらりと開ける。庭から、何かを抱き上げる。振り返ったエレーナの腕の中にいるのは、一匹の黒い猫だった。
「あれ。そいつ、おばあちゃんの所の猫じゃないか」
「うん。お庭にいたの」
「おばあちゃんについて来てたのかな」
 エレーナは黒猫を抱えたまま、ルエラの隣に座った。
 村長が、三人分の飲み物を持って部屋へと入ってくる。
「エレーナちゃんは、オレンジジュースで良かったかい?」
「うんっ。あと、ナタにミルク~」
 ナタと言うのは、猫の名前のようだ。村長は承諾すると、再び部屋を出て行った。後に続こうとしたナタを、エレーナが抱き上げる。
「ナタはエレーナとお留守番。ね?」
 廊下から、バタンと倒れるような大きな音がした。ルエラ達は席を立ち、慌てて部屋を出る。扉を開けると、村長が身体を起こすところだった。
「大丈夫ですか?」
 ルエラは慌てて傍らにしゃがみ込む。助け起こそうと触れた手は、ぞっとするほど冷たかった。
「ああ、うん。大丈夫だよ」
 やんわりとルエラの手を払い、村長は立ち上がる。
「少し、躓いてね。よくやるんだ。歳かねぇ。座って待っていておくれ」
「あっ。ナタ!」
 村長は台所へ向かう。ナタはその後を追って行ってしまった。

 再び村長が、今度はミルクの入った皿を片手に戻って来て、ルエラは本題に入る。だが、村長に尋ねてもルエラ以外の客人は来ていないとの事だった。
「ここ数十年、外からの客は来ていないよ。東のトンネルの辺りなら、仕事で行き来している人もいるようだけれどね。けれどここ数年は、それも年に一度や二度だ。何しろ、最近は周りで土砂崩れや陥没が多いからねぇ。こんな危険な土地、誰も敢えて踏み入ろうとはしないんだよ」
「土砂崩れ……?」
「ああ。この村も、昔は多かったそうだよ。私の父や祖父の頃になるけれどねぇ。南の崖沿いに行けば、今も陥没した後の大穴が空いている。――危険だから、そっちには行かないようにね」
 ルエラの心中を読み取ったのか、村長はそう付け加える。
「そうだねぇ……。ここ、八十年ぐらいかねぇ……。周りは陥没が続いているけれど、村の中では一切無い。神のご加護って奴なのかねぇ」
 そう言って、村長は笑う。
「この村で、何か事件が起こった記録はありますか?」
「平和な村だからねぇ……強いて挙げるとすれば、さっき言った南側の陥没ぐらいだよ。その陥没も、最近じゃ全く無いぐらいだ」
 ボーン、と柱時計が定時を告げて鳴る。まるでそれに答えるかのようにして、遠くでゴロゴロと雷鳴が低く響いた。
 村長は窓の外に目を向ける。
「嵐が近付いているようだね。早く帰った方が良い。何かあったら、また来なさい」


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2009.7.20
2011.10.8加筆修正

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