メアリーは、今の状況が信じられなかった。信じたくなかった。メアリーは屋敷へと帰って来た。けれど、こんな帰宅は望んでいなかった。
 目の前には、優しい兄。けれどいつもの優しい面影は消え、彼の笑顔からはただ冷たい印象しか受けない。
 床に叩きつけるようにして解放され、メアリーは座り込んだまま彼を見上げる。
「お兄様……どうして、こんな事を……! お願いです、もう止めてください!! 今まで通りの優しいお兄様に戻って……!!」
 悲痛な声でメアリーは懇願するが、彼には届かなかった。
 ただ冷たい瞳でメアリーを見下ろし、背を向ける。
「奥の部屋に閉じ込めておけ」
「お兄様!」
 再び腕を引っ張られ、立たされながら、メアリーは兄の背中に呼びかける。メアリーの兄は、角を曲がって見えなくなった。
「ほら、歩け」
 メアリーを立たせた男は、強引に腕を引く。メアリーは渋々と歩いて行った。
 恐らく、閉じ込められるのは屋敷の一番奥にある部屋だろう。外からしか鍵が掛けられず窓の無いあの部屋は、実質牢屋のようなものだ。
 メアリーは唇を噛む。信用していたのに。信頼を置いていたのに。例え血は繋がっていなくても、彼はかけがえの無い兄だった。
 遺産が欲しいなら、くれてやる。屋敷も、美術品も、メアリーにとっては大して重要な物ではない。両親がいて、兄がいて、使用人達がいて。何の変哲も無いいつも通りの生活が続けば、どんなに良かっただろう。
 メアリーは、廊下の途中に生けられた花をじっと見つめる。大きな花瓶に生けられた、たくさんの花。色鮮やかな筈のそれも、今のメアリーには灰色に見えた。
 その花瓶の前まで来て、メアリーは掴まれた方の腕を振り払った。慌てたように男は振り返る。彼が振り返った時には、メアリーは横にあった花瓶を振り上げていた。
 鈍い音が響き、磨かれた廊下に数滴の鮮血が落ちる。男がよろめいている内に、メアリーは駆け出した。
 屋敷は代々増築を繰り返し、複雑な作りになっている。先々代の遊び心で、隠し通路のような物も中にはある。メアリーは、この屋敷で生まれ育った。兄に雇われた者達は、たった数日居座っただけだ。上手くいけば、逃げ切れるかも知れない。
 幾つもの扉を潜り、何度か床板を外して下の階に折り、廊下を疾走し、メアリーは兄の部下の者達の手から逃げ回る。奴らと鉢合わせした時は、壁に掛かった絵画や棚に置かれた骨董品などを、手当たり次第投げつけた。そうして、メアリーは徐々に屋敷の外へと近付いて行く。
 あと少し。先に見える角を左に回り込めば、窓のある部屋の並ぶ廊下に出られる。
 ほっと息を吐いたのも束の間。その角を曲がって、大柄な女性が出てきた。迷わずメアリーは、途中の棚からくすねた写真立てを投げつける。続いて現れる人影にも投げつけようと振りかぶり、メアリーはその手を止めた。
 現れたのは兄だった。メアリーは踵を返し、逃げるようにして駆ける。右手の小部屋に駆け込む。そして、メアリーの足は止まった。
 この小部屋は、出入り口が二箇所あった。今メアリーが入ってきた扉と、対角線上にもう一つあった筈なのだ。しかし通る予定だった扉は、木材が打ち付けられ塞がれていた。
 直ぐにも出て、別のルートを捜さなければ。振り返り、メアリーは硬直した。部屋の戸口には、兄が笑みを湛えて立っていた。
「まさに袋の鼠だな、メアリー」
「お兄様……」
「まったく、仕方の無い子だ。私の部下をあんなにも傷つけてくれて、どうしてくれるんだ?」
「……」
 メアリーは、ただ無言で彼を見つめる。
 あの時、迷わず物を投げつけていれば、こう直ぐに追いつかれる事は無かった。けれど、メアリーにはそれが出来なかった。例えどんな仕打ちを受けようと、彼はメアリーの兄なのだ。いつもの優しい笑顔がちらついて離れない。
「ああ、そうだ」
 ふと、彼は思い出したように口にした。首を傾げてにっこりと笑う。
「君と一緒にいた二人の少年だがね、始末しておいたよ」
 メアリーの目が見開かれる。がくがくと身体が震え出すのが分かった。
 まさか。彼らが、そう簡単にやられるとは思えない。――けれど、メアリーが人質にとられた事で身動き出来なくなっていたのも、事実。
 殺されたとすれば、メアリーがあの場に向かったから。メアリーが、彼らを巻き込んだから。
 メアリーはその場に崩れ落ちる。ただ、逃げる事しか念頭に無かった。ただただ生き延びる事に必死で、他人を巻き込むと言う事がどういう事なのか、分かっていなかった。
 床についた手の横に、ぽたりと雫が落ちる。
「どうしてです……? どうして……っ。彼らは、何も関係無いじゃありませんか!? 屋敷が欲しいなら、譲ります。家督も要りません。ロケットさえあれば良かったのでしょう? 彼らを殺す必要も、私を捕らえておく必要も、無いじゃありませんか……っ!!」
「……そうだな」
 予想外の答えに、メアリーは顔を上げる。
 戸口に立つ兄は、メアリーに銃口を向けていた。
「……お兄様」
「曲がりなりにも、妹だ。本当は、手を掛ける事はしたくなかったんだがね。屋敷を血で汚す事にもなるし……だがこの際、仕方が無い」
 銃声が鳴り響く。
 同時に、叩きつけるような大きな音がした。
 痛みは無い。恐る恐る目を開くと、戸口には黒髪の男が俯き加減で立っていた。メアリーの兄は、扉と向かい側の壁に叩きつけられている。
「とことん、馬鹿な奴だ」
 男の声に、メアリーは目を見開く。
「事を運ぶ際、仲間同士の顔は覚えさせておいた方が良いぞ」
 顔を上げた彼の顔はまだ青年と言うには幼く、瞳は翡翠色だった。
「メアリー!」
 叫び、ルエラはメアリーに手を差し伸べる。メアリーは駆け寄り、その手を取った。
 メアリーの兄は立ち上がり、二人を追おうとする。しかし、何かに衝突し再び引っくり返った。よく見れば、壁の無い三方を薄い氷で囲まれていた。殴ったり蹴ったりする程度では、破れそうに無い。
「どうなさりましたか?」
 廊下を通りかかった部下の者が気付き、立ち止まる。
彼は噛み付くように叫んだ。
「火を持って来い! 後の者はメアリーを追え! お前達と同じ服装をした少年が一緒だ!!」

「貴方、死んだんじゃなかったの?」
 廊下を駆け抜けながら、メアリーはルエラに問う。今までと変わらぬ、きつい口調だった。
 正面に現れた男をルエラは蹴り倒す。
「私がこの程度の者達に殺されるものか。それに、お前を守ると言っただろう?」
「……馬鹿」
 メアリーは小さく言って俯いた。
 人質さえ取られていなければ、反撃は容易い。ルエラ達の生存がばれぬよう、始末を命じられていた二人には気絶していてもらい、ディンを連れて病院へと赴いた。意識はあったが、あの脚では動けない。彼の治療を待つ事も無く、ルエラはメアリーの兄の部下達に紛れ込んだ。服は、気絶させた者達の物である。
 次々と現れる男達を倒し、ルエラはやや大きな服の袖を捲り上げる。
「こっち!」
 ルエラの腕を引き、メアリーは部屋へと駆け込む。
 クローゼットを開き、奥の壁を押す。何の変哲も無いように見える壁は、扉のように向こう側へと開いた。
「隠し通路か」
「お爺様がこう言うの好きだったのよ。」
 二人はその中へと入り、薄暗い通路を駆ける。
「お母様も、好きだったみたい。逃げ回っていて分かったんだけれど、幾つか手を加えられているわ」
「面白い屋敷だな」
 リム城も、万が一に備えた通路はある。けれどもそれはあくまでも万が一の逃走用のもので、この屋敷のような遊び心は無い。
 不意に、前を進むメアリーの身体が前に傾いた。見れば、先には人一人通れそうな程の穴がある。
「や……っ、リ――」
 ルエラは手を伸ばす。しかしその手はメアリーには届かず、ルエラも転げるようにして穴の中へと落ちて行った。
 硬く冷たい壁に何度かぶつかりながら、ルエラは体勢を整える。間も無く、足元でどさっと言う音が聞こえた。
「メアリー、そこを退け!」
 言って直ぐ、ルエラはメアリーに覆い被さるようにして着地した。
「痛っ!」
「退けと言っただろう」
「そんなに直ぐ動ける訳無いじゃない!」
 文句を言うメアリーには構わず、ルエラは辺りを見回す。
 暗い部屋だった。四方の壁は直ぐそこまで迫っている。天井には穴が開いていて、どうやらそこからルエラ達は落ちたらしい。背後の壁と壁の間に、僅かな隙間があった。そこから漏れる光で、周囲の区別がついたのだ。
 ルエラは立ち上がり、隙間から外を覗く。外にあるのは、広い廊下だった。壁沿いには、幾つもの部屋が並んでいる。試しに隙間を挟む壁を押したり引こうとしたりしてみたが、微動だにしない。続いて四方全ての壁を押してみたが、どの壁も扉となりそうには無かった。
 ルエラはメアリーを振り返る。
「ここも隠し部屋か?」
「知らないわ。お母様が追加した部屋なんだと思う……。
……開かないの?」
「ああ……どうやら、閉じ込められたようだな」
 ルエラは再び隙間から外を伺いながら、ひそひそと話す。
 メアリーは食ってかかるようにしてルエラに歩み寄る。
「冗談じゃないわ! こんな所にいなきゃならないなんて――」
 不意に、ルエラはメアリーを壁に押し付けるようにし、彼女の口を手で塞いだ。ルエラは、黒い服を着て黒髪の鬘を被っている。ルエラが外側にいてメアリーを隠した方が、見つかりにくい。
「……この辺りも捜されているようだ」
 メアリーの耳元で、ルエラは囁く。口を塞ぐ手は離したが、メアリーの顔の両側に手を突いたままだ。あまりの近さに、メアリーの首筋にルエラの息が掛かる。
 ルエラ達のいる部屋の前に、一人の男が現れた。奥にいるメアリーもその姿を認める。男は一つ一つ部屋を開け、念入りに捜し回っていた。ここは隠し部屋だ。外からも、容易には見つかるまい。そうは思っても、男の接近に恐怖が沸き起こる。再び逃げ出せた。ルエラとも再会出来た。安心していた心に、言い知れない不安が押し寄せる。
 震えを止めるように、メアリーはルエラにしがみ付いた。

 屋敷の前には大勢の人が集まっていた。誰もが、くすんだ青色の軍服に身を包んでいる。道は封鎖され、一般人の姿は無い。
 軍人達は整列し、門の前に立ち並ぶ。
「首謀者は、トム・クロス! 下の者達は、已むを得ず命令に従っている者もいる可能性がある。可能な限り、無傷で捕らえよ。同時に、この家の主メアリー・クロスと、リン・ブローと言う銀髪の少年を保護する。――突入!」
 掛け声の主は、艶やかな金髪の少年だった。彼を先頭に、軍の者達はクロス家の敷地内へと踏み込む。
「軍だ!」
「そんな馬鹿な!?」
 そんな声が、至る所でする。中には、何が起こっているのか理解していない者もいた。
「な、何があったんですか!?」
 廊下を突き進むディンに、一人の男が困惑した表情で尋ねる。
 ディンは淡々とした口調で、突入して何度目かの説明をする。
「お前達に指示を出しているトム・クロスは、不当な手段によってクロス家の家紋を入手した。その際、殺人未遂も犯している」
「まさか……!」
「事実だ。――おい、お前」
 ディンは傍につき従う軍人を振り返る。
「彼を外へ」
「どうして!」
 反抗するのは、家の者だ。逮捕されるとでも思ったのだろうか。その顔には、焦りの色が見える。
「当然だろう。この家に凶悪犯がいるんだ。一般人は保護する必要がある」
「え、ああ……なるほど、そうですね……」
 ホッとしたように頷くと、彼はディンの横を通って素直に軍人の方へと向かった。それを見届け、ディンは背を向ける。
 同時に、軍人が声を上げた。
「あっ、貴様……!」
 男は、ディンに拳銃を向けたのだ。しかし、取り出した銃には剣が当てられ、天井を向くように押し上げられていた。つられて上がった腕越しに、ディンの青い目が自分を見つめているのを男は見た。
「馬鹿な真似は止めておけ」
「……」
 ディンは剣を拳銃から離し、背を向ける。
 男は、度肝を抜かれたような表情でその背を見送っていた。気がつけば、彼は軍服を着ていない。決して、ただの若い軍人なんかではない。
 ――何者だ、あいつ……。
 軍人に連行されながら、彼は畏怖の念に囚われていた。

 ディン達は、次々と使用人達を取り押さえていく。抵抗して来た者とは多少の戦闘になったが、戦いに不慣れな者が多い事もあり、殆ど無傷のままに逮捕出来た。
 ディンは一人、屋敷の奥へと突き進んでいた。脅え、敗走するような者ならば、態々ディンが手を掛けずとも他の軍人が何とかする。
 廊下には、ディンの歩く足音だけがカツカツと響く。
 不意にディンは伏せた。銃弾がディンの頭上を掠める。
「人の事を散々貶してくれたが、君も人の事は言えないようだな。そう足音を立てて歩いていると、襲撃してくれと言っているようなものだよ」
 拳銃を片手に、メアリーの兄トム・クロスが姿を現した。
 ディンは不適な笑みを浮かべる。
「問題ねーよ。その通り、『襲撃してくれ』ってつもりだったからな。まんまと誘いに乗ってくれて、ありがとよ」
「貴様……っ、何処までも馬鹿にしやがって……!」
 そこへ、足音が駆けて来た。駆けつけた軍人は、ディンの背後に並ぶ。
「ご無事ですか!? お一人で先に行ってしまわれたと伺って――」
「ああ、大丈夫だ。こいつがトム・クロスだ」
 ディンの言葉に、彼は手にしていた拳銃をトムに向ける。
「直ちに武器を捨て、手を頭の後ろに回しなさい」
 トムの手にあった拳銃が、床に落ちる。トムはそろそろと手を挙げた。
 軍人が気を抜いた、一瞬だった。
 トムは首の後ろから拳銃を取り出し、撃った。銃弾は軍人を直撃し、彼はどさりと後ろ向きに倒れた。
 次の瞬間、血飛沫が散った。ディンは剣を抜き、トムの正面まで間合いを詰めていた。血は、トムの物。トムの右腕は、彼の足元にある血溜りの中に落ちていた。
 トムの悲鳴が迸る。
 ディンは剣を振って血を払い、冷ややかな目でトムを見下ろした。
「ほんと、馬鹿な奴だな。実質傷害を加えたのは一人で済んだものを」
「くそ……っ」
 馬鹿だが、執念はあるらしい。残った左手で、彼は拳銃を拾い挙げた。定めもせず、引き金を引く。尤も、ディンは目の前だ。定める必要も無かった。対してディンは、この近距離では避けられる筈が無い。
 しかし、ディンが再び撃たれる事は無かった。銃弾は、空中で止まっていた。……否、空中では無い。目を凝らして見れば、ディンとトムとの間に薄い氷の壁があった。銃弾はその壁にめり込むようにして、止まっている。
 氷の壁は、廊下の壁の方まで続いていた。その先を辿り、ディンは壁の間に隙間があるのを見つける。隙間の間からこちらを見つめる、翡翠色の瞳と眼が合った。
「――リンか」
「ああ。……お疲れさん」
 そう言って、翡翠色の瞳が柔らかく微笑んだ。


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2009.9.19

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