橋の下を流れる川の上には、霧がかかっている。寒さは日増しに厳しくなり、冬が訪れようとしていた。
 いつもより早い時間に広場へと向かうフリップを、呼び止める声があった。
「フリップ君? こんな時間に、珍しいわね」
「ステラさん」
 店の常連客の一人だった。フリップは、足を止め橋の向こうから歩いて来る彼女を待つ。ステラは、不思議そうに首を傾げた。
「お店は?」
 時刻は、お昼を回ったばかり。飯屋を営んでいれば、最も忙しい時間帯だ。ステラの疑問は、当然のものだ。
「今日は休みなんだ。町内会の話が凄く重要な内容だとかで、今日は母さんも一緒に出掛けてるから」
「ああ、なるほどね。確かに、フリップ君一人じゃさすがにつらいものねぇ。それにどの道、今日は町中の人達が会議に行っちゃうから、お店を開いても仕方ないでしょうし」
「そうなの? それじゃ、ステラさんも?」
 ステラはうなずく。
「これから、向かうところよ。……ねえ、フリップ君」
 ステラは、真剣な眼差しでフリップを見据えていた。
「まさかとは思うけれど……北の森には、行ってないわよね?」
「え……。い……行ってないよ。なんで……」
「あの森は本当に危険なの。フリップ君、好奇心旺盛だから……もしかしたら私、余計な話をしちゃったんじゃないかって、あの日から不安で……」
 ステラはフリップの手を取ると、両手で包み込んだ。
「約束して。絶対に、あの森には近付かないって。あそこには、魔女が棲んでいるのだから……」
「……できないよ」
 フリップは、ステラの手を振り払う。
「約束なんてできないよ! あの森には、魔女なんて棲んでない! あそこにいるのは、俺の友達だ!」
 吐き捨てるように叫ぶと、フリップは逃げるように駆け去って行った。
 冷たい空気を引き裂き、フリップは広場へと走る。ピーターとジェムと落ち合うと、二人を急き立てるようにして森へ向かった。
 一刻も早く、ユリアに会いたかった。昨日の今日で、会うのを拒絶されるかもしれない。それでもせめてあの湖の所まで行って、この森が危険なものではないと言う事をこの目で再確認したかった。
  暗い森の中、先頭に立ってずんずんと前へ進んでいたフリップは、突然足を止めた。ほとんど小走りになってついて来ていたジェムが、フリップの背中にぶつかる。
「どうしたんだよ、フリップ」
「紐が……なくなってる」
 フリップは、愕然と呟く。ジェムが持って来て木に結びつけていた、梱包用の白い紐。一定間隔で結んでいたはずのそれが、見当たらない。
「慌てる事ないよ。紐の間は、ずっと真っ直ぐなんだから」
 ピーターが冷静に話す。彼の言うとおりではあるが、フリップは気にせずにはいられなかった。
 しっかりと結んであった紐。ここ数日間ずっとそのままだった紐が、どうして突然なくなった? 昨日は雨など降っていない。森に生き物の姿はなく、動物や虫によって切られる事も考えにくい。
 考えられるのは、誰かが意図的に解いた可能性。
 フリップ達が目印を見失うように。もう二度と、湖の方まで来られないように。
 「ユリア……」
 間もなく、フリップ達は例の湖の畔に出た。どうやら、解かれた紐は二、三本だったらしい。
 森の中も、湖の上に霧がかかっていた。そしてその霧の中から、いつかの日のような歌声が聞こえていた。

 川を下ろう 小舟に乗って
 力を持つ者も持たざる者も 手を取り合って
 広い川は 激しくうねり
 古い森は 彼らを惑わした
 竜は川の水を堰き止め
 術師は森の木々を鎮めた
 彼らは友を見送った
 また会える日を信じて
 友は彼らを残して行った
 南に聳える お山の麓を目指して

 歌声を辿った先は、ユリアと別れた木の根元だった。フリップは立ち止まり、目を見開く。
 低い草が生えていただけのはずのそこには、青い花が咲き誇っていた。彼女が手を揺り動かすのに合わせ、空中に花が現れては花びらを散らす。
 くるりとこちらを向いた彼女は、ピタリと歌うのをやめた。彼女の足元に咲いていた花は首を下げ、萎れて行く。
 花が萎れると共に、彼女の顔色が蒼くなって行く。彼女が駆け出す前に、フリップはその細い腕を掴んだ。
 ここで見失えば、もう二度と彼女と会う事はできないだろう。
「ユリア。今のって……」
 黒い瞳が揺れる。フリップは彼女の正面に回り込み、逃げ場を探すように定まらないその視線を捕らえた。
「ユリアは、魔女だったの?」
 ユリアは泣きそうな顔をしていた。視線をそらしながら、彼女はゆっくりとうなずいた。
「……だから、もうここへ来ちゃダメなの。あんな目に遭えば、もう来ないだろうと思ったのに……」
「それじゃあやっぱり、最初にここへ来た時に草木が襲って来たのは、君の仕業だったんだね」
 ユリアはびくりと肩を揺らし、うなずく。
「やっぱりって? ピーター、ユリアが魔女だって気付いてたの?」
「確信はなかったけどね。ここは、魔女の森だと言われているんだ。そこで見かけたという女の子。その帰り道に起こった出来事。疑うには十分だろう?
 すると、二回目に来た時に言っていた木が意志を持ってるって話も、嘘だったんだね。僕達を警戒していると言うのも、探られたくない事があるのも、全部自分の話だった」
「ごめんなさい……でも、完全な嘘じゃないわ。草木が意志を持っているのは、本当の話。この森に限らないけれど。私の力は、彼らと会話して力を貸してもらう類のものだから」
「魔女だろうと森の精霊だろうと、俺達は気にしないよ」
 フリップは、毅然と言い放った。
「ユリアはユリアだ。俺達の、大切な友達だ。――そうだよな?」
 フリップは、二人の親友に同意を求める。ピーターは、肩をすくめた。
「ユリアが隣町を燃やしたとも思えないしね。正直、魔女がかなり想像と違っていて驚いてるよ」
 ジェムは答えない。青い顔でうつむく彼の顔を、ピーターが覗き込む。
「ジェム?」
「なん、で……」
 じり、とジェムは後ずさる。上げられた彼の顔は、恐怖に蒼ざめていた。
「二人とも、何言ってるんだよ……魔女だよ? 災厄の遣いなんだよ?」
「ジェム……? お前こそ、何言ってるんだよ!? しっかりしろよ!」
「しっかりするのは、フリップとピーターの方だよ! どうしたって言うんだよ!? 魔女に憑かれちゃったの!?」
 ジェムはじりじりと後ずさり、背中に木が当たった所で立ち止まった。そのまま、近付こうとせずにこちらの様子を伺っている。
「ご、ごめん、ユリア。ジェムの奴、突然の事にびっくりして混乱しているみたいで……」
 ユリアの肩に置かれたフリップの手を、彼女はそっと外した。
「騙していてごめんなさい。ほんの少しの間だったけれど、あなた達と会えて、たくさんお話しできて、とっても楽しかった。さようなら……」
 強い風が吹き、葉が舞い上がる。渦巻く緑の中に、ユリアの姿は見えなくなった。
「ユリア! 待って!」
 渦へと伸ばしたフリップの手に、植物の蔓が巻き付く。それはフリップの手足を拘束すると、緑の渦の中をユリアとは反対の方向へと運び出した。ピーターも、ジェムも、同じようにして木々の中を運ばれていた。
「何だよ、こいつら! 放せよ!
 ユリア! ユリアー!」
 フリップの声は彼女には届かず、三人は森の外へと放り出された。すぐさま立ち上がり駆け寄るも、目の前で茂みは急成長し固い壁となって立ちふさがる。
「……くそっ」
 フリップは地団駄を踏み、そして振り返った。フリップと同じように蔓に運ばれ、森を追い出された友人達。手と膝をつき、背を向けた小柄な後ろ姿。
「ジェム! なんであんな事を言ったんだ! ユリアが秘密を打ち明けてくれたのに! 心を開いてくれそうだったのに!」
 ジェムはふらふらと立ち上がる。そしてキッとフリップを見上げた。
「彼女は魔女だったんだ。僕達を騙していたんだよ!」
「ユリアは、そうやって避けられるのが怖かっただけだ! 臆病者! もういい、お前の顔なんか見たくない! 行けよ! 魔女の森が怖いんだろう」
 ジェムはムッとした顔をしたが、何も言わずにふいと背を向けると森沿いに駆け去って行った。
「……フリップ、いくら何でも言い過ぎだ。本当に臆病者なら、ユリアが魔女だと分かった時点で、一人で逃げ出しているよ。ジェムは、僕達のそばを離れようとはしなかっただろう」
「一人で帰るのが怖かっただけだろ」
  フリップは冷たく吐き捨てる。三人の中で一番気が弱く、魔女の噂も怖がっていたジェム。しかしまさか、仲良くなったはずのユリアにまであんな態度を取るとは思わなかった。彼女が魔法を使えるとしても、ただそれだけの話だ。悪い魔女とは違うと言うことなど、ジェムも知っているだろうに。
 フリップは森を壁のように囲む茂みに飛びつくと、むしり出した。ざわざわと風に木々が揺れる。
「フリップ!」
「このままお別れなんて、そんなの納得できるもんか! ユリアの所に行くんだ。俺達はユリアの事なんて怖くないって、もう一度ちゃんと伝えるんだ」
 不意に、葉をむしった先に丸いものが見えた。それは、目玉のように見えた。ぎょろりとした、白黒の目玉。
 ピーターが、乱暴にフリップの肩を引いた。
「やめるんだ! 森の植物を傷付けちゃいけない」
 ピーターに引っ張られるがまま、フリップはどすんとその場に尻餅をつく。
「ピーター……今の、見た?」
「何をだい?」
「いや……」
 目玉は、もうなくなっていた。見間違いだったのだろうか? 周りを葉に覆われた、フリップの拳ほどもあるまん丸の目玉。もちろん、ユリアではない。人間のものでは考えられない。
 草木を刈り取れないとなればそれらに囲まれた森に押し入る手立てもなく、フリップ達はとぼとぼと町へと戻るしかなかった。


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2014.7.20

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