刺すように冷たい水が服に染み込み、重りと化していく。フリップは強く水を蹴ると、ぷはっと水面に顔を出した。
 ジャバジャバと岸まで泳いで行くと、目の前に白い手が差し伸べられた。フリップは目を瞬き、手の主を見上げる。
 例の女の子がしゃがみ込み、フリップに手を差し伸べていた。フリップが川に落ちたのを見て、心配して戻って来てくれたらしい。
「あ……ありがとう」
 フリップは手を伸ばしかけ、ハッと顔をそむけた。女の子は、不思議そうに首をかしげる。どうやら気付いていないらしい。
「えっと……スカートでしゃがまれると、その……見えそうと言うか、何と言うか……」
 しどろもどろな指摘でやっと彼女は気付き、パッとスカートを押さえ膝をつく。その顔は、真っ赤に染まっていた。
 フリップはぽかんと、少女の顔を見つめる。
 昨日会った時も、ずっと無表情で捉えどころのなかった女の子。そんな彼女が初めて表情を変えたのだ。思わず、フリップは笑っていた。彼女は、抗議するような剣呑な視線をフリップに向ける。
「……見たの」
「ち、違うよ! 見えそうってだけで見てない! 見えてないから!」
 フリップはぶんぶんと首を左右に振る。
「ただ、君、ずっと無表情だったから。あまりしゃべらないし……。もしかしたら、森の精霊か何かじゃないかってちょっと思ったりもしたぐらいだよ。
 それでその、照れた顔が、ちょっと可愛いなって……」
「……あなた、意外と意地悪なのね」
「え、ええっ!? なんで!?」
 女の子は答えず、スッと再び手を差し出した。
「ずっと水の中にいたら、風邪ひいちゃう」
「あ、うん……ありがと……」
 ほぼ初対面に等しい少女になぜか悪印象を与えてしまったことにショックを受けつつも、フリップは彼女の手を取った。
 少女の手を借りて岸に上がると、坂道を下って崖を降りて来たピーターとジェムがやって来た。
「フリップ! 大丈夫かい?」
「わああ……またびしょびしょになっちゃったね……」
 女の子の肩がびくりと揺れる。また逃げ出してしまいそうな気がして、フリップは彼女の手を握ったままの右手に軽く力をこめた。
「大丈夫。二人とも、俺の友達なんだ。悪い奴らじゃないよ」
 女の子は、戸惑うように目を泳がせる。彼女が逃げる間もなく、二人はフリップ達の所まで駆け寄って来た。
「驚いたなあ。本当にいたんだ。フリップが言ってた女の子」
 ピーターが、まじまじと女の子を見つめる。
「こんな森の奥で何をしているんだい? まさかそんな格好で探検って訳じゃないだろうし……」
 女の子は、昨日と同じ白いワンピースを着ていた。白いワンピースに、白いカーディガン。フリップを引っ張り上げるために地面に膝をついたのに、不思議な事に全く汚れていない。
 女の子は困ったように視線を落とす。
「私は……」
「ああ、そうだ! まずは、俺達の方から自己紹介しないとね」
 フリップは女の子の手を離し、ピーターとジェムの横に並ぶ。
「俺は、フリップ。それからこっちの眼鏡がピーターで、こっちのチビがジェム。いつも、三人で色んな場所を探検してるんだ。この森にも、探検に来たんだよ」
「この森の噂……知らないの……?」
 女の子はやはり困惑顔で、恐々と尋ねる。フリップは軽く肩をすくめた。
「もちろん知ってるさ。だから、探検に来たんだよ。そしたら昨日、ここを見つけて……あ! そうだ。昨日君に借りた、マフラー。あれを返しに来たんだけど、また濡れちゃった……」
「そんなの、別に気にしないのに」
「また洗ってから、返すね」
 手を出しかけた彼女は、その大きな瞳をパチクリさせる。
「……また来るの」
「うん。駄目? ……あ、それとも、君は来ないかな」
「ううん。私はいつも、ここにいるから……」
 ピーターが、口を挟んだ。
「いつも森に来ているのかい? 一人で? さっきも聞いたけれど、どうして君みたいな女の子がこんな所に……」
 女の子はゆっくりと首を左右に振る。
「一人じゃない……おばあちゃんが一緒。二人で、ここに住んでいるの」
「あっ」と声を上げたのは、ジェムだった。
「もしかして、フリップが見た白い影って君の事?」
 こくんと彼女はうなずいた。
「声がしたから……気になって……」
「それじゃあ、君、森の中のことも結構詳しいんだ? 迷わないで、僕たちの声のする方まで来たり、ここまで戻ったりしたんだろう?
 この森に魔女が棲むって噂があるんだけど、その事については何か知ってる? 僕達も昨日、襲われそうになったんだ」
 そう言うとピーターは、昨日の帰り道の事について話した。強い風と共に、突然道が現れたこと。何の危険もない一本道に思われたが、背後から木々が迫って来たこと。幸いにも出口が近かったため、難を逃れたこと。
 女の子はうつむいて、ピーターの話を聞いていた。
「一応、行きの道は平気だったから、今日もその道を辿って来たんだけど。本当に安全な道なのか心配だからさ、もし何か知っているようなら聞いておきたいと思って」
「……そんなことがあったのに、どうしてまた来たの」
「君に会いたかったから」
 そう答えたのは、フリップだった。
「そう言う事があったからこそ、そんな森の中にいた君の事が気になったし、それにこの森もただの森じゃないって分ったから。探検家として、もっと色々探らないとね!」
「探検家……」
「俺、探検家になりたいんだ」
 胸を張り、得意げにフリップは話す。彼女は、ぽつりと呟いた。
「いいな……」
「ん?」
「ううん。何でもない。でも、どうやって? 森は暗くて、道もなくて、迷わなかったの? また同じ所に来られるなんて……」
「ピーターが、目印を付けてたんだ」
 ジェムが答えた。ジェムの視線に促され、ピーターは鞄から紙の束を取り出す。
「ピーターのテスト用紙を木に結んであったんだ。途中までだったけど、そこからは真っ直ぐだし……今日は、僕が持って来た紐を縛り付けてある。もし昨日みたいに奇妙な道が現れても、ちゃんと帰る道が分かっていれば怪しい道に頼る必要はなくなるから。もう、あんな怖い思いはしたくないなあ……」
「まるで、木が動いてるみたいだったよね」
 昨日の帰り道を思い返しながら、フリップは相槌を打っていた。
 女の子は無表情で話を聞いていたが、ぽつりと呟くように言った。
「……森の巨人たちの話は、聞いた事ある?」
 彼女の問いかけに、フリップは目を瞬く。同じくきょとんとするジェムと顔を見合わせ、フリップが代表して答えた。
「俺達、本読まないから……仕入れのメモとか、その程度の字なら読めるけど」
 そして、問うようにピーターを見上げる。三人の中で唯一学校に通っている彼も、首を振った。
「聞いた事ないな。おとぎ話か何かかい?」
 こくんと女の子はうなずく。
「巨人と言っても人の姿ではないから、精霊と言った方が近いかもしれない。昔々、古の時代、森には樹木を守る精霊たちがいて森を荒らそうとする侵入者を追い出していたの」
「それって……」
「この森には、その名残があると言われている」
 フリップ達を追い立てるように、背後を閉ざしていった木々たち。あれは魔女の仕業ではなく、森の精霊によるものだったのだろうか。
「君は、その精霊を見たことがあるの?」
 フリップの質問に、彼女は静かに首を振った。
「もう、大昔の話だもの。でも、ここの草木は意志を持ってる。言葉を話すことはないし、自分で動くところも見たことはないけれど、それは確かだと思うの」
 ピーターが女の子の方へと身を乗り出す。
「自分で動かないって……それじゃあ……」
「だから、あまり長居はしない方がいいと思うわ。森は、慣れない人たちに敏感だから。ずっと、あなた達の事を警戒してる。今日、こうして話してみて、悪い人達じゃない事は分かったけれど……それでも、警戒を解く訳にはいかないの。あまり知らない人に、探られたくない事もあるから」
 そう話す女の子の表情は、初めて出会った時と同じ無表情で頑なに人を拒むかのようだった。
 ジェムが、不安げにフリップとピーターを見上げる。
「か、帰ろう? また危ない目に遭ってもいけないし……。マフラー返すために、また明日も来るんでしょ?」
「うん、そうだね。行こう、フリップ。君も服を乾かさなきゃいけないだろう。風邪引くよ」
「あ、うん」
 フリップはうなずき、女の子に手を振った。
「じゃあね。また、明日」
 女の子は言葉を発さずに、こくんと首を縦に振っただけだった。

 今日は昨日とは違い、途切れることなく一定間隔で紐を結んで来ている。ピーターとジェムが降りて来た道を辿って崖を回り込む。緑の中に結ばれた白い紐は、直ぐに見つける事ができた。
 木々が密集する暗い中へ足を踏み入れようとして、フリップは「あっ」と声を上げた。
「あの子の名前聞くの忘れてた! 俺、ちょっと聞いて来る!」
「ええ!? そんなの、明日でも……」
 ジェムの言葉はフリップの耳には届いておらず、既に元来た道を駆け戻っていた。岩を飛び越え、緩やかな坂を上り、茂みを回り込んで、また今度は坂を下る。
 少女はまだ湖の畔に立ち、湖面を見つめていた。
 その横顔は相変わらずの無表情だったが、なぜか少し寂しげに見えた。掛ける言葉に戸惑い、フリップは足を止めその場に立ち尽くす。
 女の子は振り返り、目を瞬いた。
「……どうしたの」
「えっ……あの、ほら、名前! 君の名前、聞き損ねたから」
 女の子はぽかんとした顔でフリップを見つめていたかと思うと、うつむきがちになって小さな声で呟いた。
「……ユリア」
「ユリア……ユリアって言うんだね! いい名前だね!」
「ありがとう……」
 ユリアは頬を少し染め、恥らうように両手の平をこすり合わせる。フリップは今度こそ手を振り、背を向けた。
「じゃあね、ユリア! また明日!」
「うん……また、明日」
 ユリアは慣れない様子で片手を挙げ、少し照れくさそうに微笑んでいた。


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2014.7.6

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