レンガの壁に囲まれた広い部屋には、いくつもの大きな机が並んでいる。お昼や夕方と言った食事時にはたくさんの人で溢れかえるこの店も、昼の混雑を過ぎた今は数人連れの女性客が紅茶を飲んでいるのみだった。
 部屋の奥の扉から出て来た少年に、客の一人が目を留める。
「あら? フリップ君、出掛けるの?」
 フリップの背中には、ナップザックが背負われていた。父親から譲り受けた唾の広い帽子は、色褪せくたびれている。
 声を掛けたのとはまた別の女が、仲間達の向こうから覗き込むようにして言った。
「気にする事ないよ、ステラ。また、いつもの二人と遊びに行くんだろう」
「遊びじゃないよ! 探検に行くんだ!」
「ああ、いつもの探検家ごっこね」
「ごっこじゃないやい! 俺は、探検家になるんだ!」
「はいはい」
 息巻くフリップを、女達はクスクスと笑う。
 むくれっ面になるフリップに、ステラが控えめに言った。
「あまり遠くへは行かないようにね。昨日も、隣町で大きな火事があったみたいだから……」
「ああ、魔女の呪いだって話だろう。薪が足りないからって、森の木を伐った連中がいたって」
 ステラの友人の女が、眉根を寄せて話す。
 フリップは、きょとんと彼女達を見つめた。
「薪は必要だろ? なんでそれを伐ったら、町が火事になるんだ?」
「え? フリップ君、知らないの!?」
 ステラは目を丸くして続けた。
「北の大地に、森が広がっているでしょう。海の方まで続くんじゃないかって言われている深い森。あの森にはね、魔女が棲むって噂があるのよ。森に迷い込んだ者たちを惑わし、喰らう魔女がいるって……」
「魔女の森を伐採するなんて、馬鹿な連中だよ。町ぐるみでやったんだか、一部が勝手にやったんだか知らないが、巻き込まれた人達は可哀想にねぇ」
「魔女の森か……」
 フリップはぽつりと呟く。
「そう。だから、北の大地に広がるあの森には近付くんじゃないよ。フリップだって、魔女に喰われたくないだろう」
 念を押すように言った女の言葉は、フリップの耳には届いていなかった。

「と言う訳で、今日は森を探検だ!」
 川沿いにあるいつもの広場で、フリップは二人の友人を前に腕を組み意気揚々と宣言した。
「そう言うと思ったよ……」
 少年の一人が、呆れたように眼鏡を押し上げ溜息を吐く。
「ピーターだって、気になるだろ。森に棲まい、呪いを振りまく魔女の噂! 父さんも母さんも、この話を聞いたら俺が行きたがると思ってたから、黙ってたんだろな。だが、俺は知った! 知ったからには、見逃すわけにはいかない!」
 ピーターは再び、溜息を吐く。もう一人、背の低い少年がおずおずと切り出した。
「で、でも……それって、探検なんて行ったら本当にまずい場所だって事じゃ……」
「何だよ、ジェム。怖いのか?」
「そ、そりゃあ怖いさ。だって、魔女だよ? フリップは怖くないの?」
「誰が怖いもんか! 隣町を焼き払った悪い魔女だろ。見つけたらむしろ、とっちめてやる!」
「ピ、ピータぁ……」
 ジェムは救いを求めるように、ピーターを仰ぎ見る。ピーターは唯一、フリップを止められる人物だ。しかし、彼もまた好奇心旺盛な事には変わりなかった。
「まあ、奥まで行かなければ大丈夫なんじゃないかな。僕達は別に、森の木を伐ろうとか生き物を傷つけようとか考えている訳じゃないし」
「そ、そうかなあ……」
 ジェムは迷うように目を泳がせる。フリップは構わず、駆け出した。
「怖いなら、俺達だけで行ってくるよ! ほら、ピーター、早く!」
「はいはい」
「ええっ。待ってよ! 僕も行くよ!」
 ジェムは慌てて、フリップとピーターの後について来た。
 ジェムは気が弱く怖がりだが、決して臆病者ではないとフリップは知っていた。彼も何だかんだで、探検が好きなのだ。魔女を怖がる素振りを見せながらも、森の入口まで着けばその表情はフリップやピーターと同じく、未知への好奇心に輝いていた。
 町中を抜け、北に続く畑道を歩いて行った先に森はあった。森に分け入ろうとする奇特な者など、そういない。大木の間には茂みが続き、侵入者を拒んでいた。
 森沿いに歩き、茂みの低い部分を見つけてフリップ達はそれを乗り越えた。森の木々はどれも大きなものばかりだ。その高さは、フリップの家を優に越える。町一番の豪邸であるピーターの家とも、良い勝負かもしれない。
 日の光は生い茂る葉に遮られ、地面まで届かない。湿った下草を踏みしめ奥へ進もうとするフリップを、ピーターが押し留めた。
「待って。目印を残した方がいい」
 そう言って、彼は四角いリュックサックを下ろして中から赤い丸がたくさん付いた紙の束を取り出した。その一枚を、近くの木の枝にくくりつける。
「い、いいの? それって、テストって奴じゃあ……」
「テスト?」
 聞き慣れない言葉に、フリップは首を捻る。
「うち、雑貨屋やってるでしょ? ピーターみたいな学校通ってる子が、よく来るんだ。通ってる子達の順位を決める大切なものらしいんだけど……」
「いいんだよ。どうせどれも点数は同じだし、習った事確認するなら教科書やノートの方が分かりやすいから。さすがに迷った訳でもないのに手袋や帽子ほどいちゃうのは、気が引けるし……」
「ふーん。まあ、ピーターがいいって言うならいいけど」
 前の紙が見えなくなる前に次の木に紙を結びつけながら、一行は奥へと進む。
 外からだと森の中に差し込む光は全て遮られているかのように見えたが、実際に歩いてみるとそうでもなかった。徐々に目が暗さに慣れて行っているのもあるかもしれないが、十分に辺りを視認することができる。
 森の外周は茂みに覆われていたが、中はそうでもなかった。光が届かないがために、背の低い植物は育ちにくいのだろう。日の光を必要としない苔類や、木から落ちた枝葉が足元を埋めていた。
 闇の中に目を凝らしていたフリップは、不意に「あっ」と声を上げた。近くの木に紙を結びつけていたピーターが振り返る。
「どうしたの?」
「いや、今、何か白いものがあの辺を通ったような……」
 フリップが指差す先には、もう何もいない。ピーターが歩いて行って木々の裏側を覗き込んだが、フリップを振り返ると首を振った。
「何もいないよ。この辺りぬかるんでるけど、動物の足跡さえない。……もしかして、魔女だったりしてね」
 そう言ってニヤリと笑う。
「ええっ」
 ジェムは不安気に辺りを見回す。
「それって、隠れて狙ってるって事!? 僕達、見つかっちゃったの?」
「いや……そんな悪い感じはしなかったけどなあ……」
 木々の間にちらりと見えた、白い色。この森の中で白と言えばピーターが木にくくりつけている紙だが、それらはフリップ達が進んで来た道にあるものだ。フリップが謎の影を見たのは、進む先。全くの逆方向である。
「随分と奥まで来たし、そろそろ帰るかい?」
 ピーターは、フリップに問いかける。フリップは答えず、駆け出した。
「え……おい、フリップ!」
「どどどどうしよう! フリップが魔女に憑かれちゃった!」
 友人達の制止の声も聞かず、フリップは一目散に駆けて行く。
 白い影は、森の奥へと消えて行った。動物? 人間? どちらであったとしても、大樹と闇しかないこの森の中、特異な存在である事には間違いない。
 フリップ達は探検に来たのだ。このまま何の発見もなく帰ってどうする。
 真っ直ぐに走り続けると、急に視界が開けた。突然の下り坂に、慌てて急ブレーキを掛ける。ぬかるんだ地面に足を滑らせ、フリップはドスンとその場に尻もちをついた。
 目の前にあるのは、森を横断する川から続く湖だった。坂だと思われたのは、湖へと続く崖だったのだ。この寒い中ずぶ濡れになると言う災難を危機一髪で逃れた事に、ホッと安堵の息を吐く。そして、辺りを見渡した。
 葉を重ね濃い闇を作り出していた木々は、その間隔を広く開けていた。明るい日差しが緑を照らし、水面はきらきらと輝いている。人の手が加わっていない大自然が、そこには広がっていた。
「すっげぇ……」
 フリップが言葉を失いその場に佇んでいると、背後から友人達の叫ぶ声が聞こえて来た。
「フリップー! 待ってよー!」
「どうしたって言うんだよ、フリップ!!」
「あっ、馬鹿、止まれ……!」
 フリップの忠告も虚しく、ピーターとジェムは勢い良く木々の間から飛び出して来た。そのままフリップに激突し、三人揃って足を滑らせる。
 ドボーンと大きな音が、湖畔に響き渡った。

「うー、寒っ」
 焚き火の前に座り込み、フリップは両腕を摩る。
「まったく……フリップが考えなしに走り出すからだよ。おかげで、目印を付けられなかったよ。どうやって帰るつもりだい?」
「まあ、まあ。俺がマッチ持ってたおかげで、こうして火に当たって乾かす事ができてる事だし……」
「それなんだけど……これ、まずくない? 木を伐った訳じゃないけど、僕達今、魔女の森に火をつけてるって事になるよね……燃やしているのも、森の中の木や草だし……」
「さすがの魔女も、落ちて後は朽ちるだけの枝や枯れ草にまで文句はつけないだろ」
 軽い調子で言いながらも、フリップも不安がない訳ではなかった。魔女の森。生活のために止むを得ず最低限の木を伐ったと言うだけで隣町を焼き払った魔女が、果たしてフリップらを見逃してくれるだろうか。
 気まずい沈黙を押し破るように、フリップは立ち上がった。
「そうだ、上! 木の上に上れば、方向だって確認できるだろ」
 言うなり、フリップは近くの木の下まで駆け、跳び上がる。
「そいやっ! ワァーッ!!」
 フリップがぶら下がった一番低い枝はその重みに耐え切れず、バキッと音を立てて折れた。走った勢いも相まって、振り子の要領でフリップは木の先にある茂みの向こうへと飛んで行った。
「フリップ!?」
「あわわわ、また森の木を……」
 茂みの向こうは、窪地になっていた。フリップは手を突き、上体を起こす。
「大丈夫ー!?」
「ああ、うん。なんか、柔らか……」
 茂みの向こうから聞こえる友人の声に答えるフリップの言葉が、ぴたりと止まる。柔らかい? なぜ?
 恐る恐る下を見ると、一人の女の子がフリップの下敷きになっていた。透き通るような白い肌。明るい茶色のセミロングの髪が、地面に広がっている。彼女の顔に表情はなく、どこかぼうっとした瞳でフリップを見つめていた。
「え、う、うわああっ!? ご、ごめんなさい!!」
 慌ててフリップは立ち上がる。少女は何も答えない。まるで何事もなかったかのように、お昼寝から目が覚めたかのごとく起き上がる。
「えっと……」
 所在なく立ち尽くすフリップを、彼女は大きな瞳でじっと見つめる。
「……どうして、ここにいるの」
「えっ。ちょっと、探検を……」
「それに、その格好……」
「こ、これは、さっき水に落ちて、服は向こうで乾かしているところで……」
 慌てて説明するフリップの首に、ふわりと柔らかなマフラーが掛けられた。
「……寒そう」
 短く呟いて、少女はクリーム色のマフラーをくるりと巻き付ける。
「あ、ありがとう……」
 目をパチクリさせながら、礼を述べる。上半身裸の上にマフラーなどまるで変態のような格好だが、そこは触れないでおこう。
 人形のように整った少女の顔を見つめていたフリップはハッと我に返った。
「そ、そうだ。君こそ、なんでこんな所に……」
「おーい、フリップ!」
 己を呼ぶ声に、フリップは振り返る。茂みと段差を迂回して来たピーターとジェムが、駆け寄って来ていた。
「フリップ、大丈夫?」
「君はいつも、動く前に少し考えなよ」
「はい……反省してます」
 ピーターの小言に、フリップは肩をすくめる。
 二人とも、乾かしていたシャツとセーターを着ていた。ジェムが、腕に掛けた服を差し出す。
「ほら、フリップの服も持って来たよ」
「ああ、ありがとう」
「どうしたんだい? そのマフラー」
 ピーターが、フリップの首に巻かれたマフラーに目を留めた。
「裸にマフラーって、変態みたいな……」
「誰が変態だ! これは、この女の子が……」
 フリップは手で指し示しながら振り返る。
 しかしそこに、少女の姿はもう無かった。
「女の子?」
「おかしいな。ついさっきまで、ここに……」
 辺りを見回すが、少女どころか動物の姿さえ全くない。その場にいるのは、フリップ達三人だけだった。


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2014.6.15

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